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10.29
Mon
 四年前に出た『YUZURU』に続く、能登直さん撮影の羽生くん写真集(集英社)。というか『YUZURU』が出たのがもう四年前なのか。ついこないだのように感じるけれど。でも今見返してみたら、やっぱり当然のことながら『YUZURU』の羽生くんより『YUZURU Ⅱ』の羽生くんの方が大人びている。
 帯、カバー、表紙とそれぞれ違う写真が楽しめる仕様はそのままで何より。今回は羽生くんの手書き文字でのメッセージがなかったのがちょっとさびしいけれど。
 一つ前の記事で取り上げた『羽生結弦 魂のプログラム』がフィギュアスケーター羽生結弦に焦点を当てた、記録性の強い写真を集めたものだとすると、この『YUZURU Ⅱ』は羽生くんのキャラクターの全体像にも守備範囲を広げている感じで、写真も記録性というよりは作品性の強いもので構成されている感じ。2014-15シーズンからつい先日までの、いろいろな羽生くんの姿が堪能できる。
 羽生くんの表情や息づかい、その場面場面の雰囲気などがとても伝わってきて好きな写真はたくさんあるのだが、特に印象深いのをいくつか。
 7ページ上と11ページ。バラード第一番の演技中に笑っている羽生くん。この笑顔を捉えているのはすごいなと思う。
 59ページ。Hope & Legacyで手を顔の前に出している羽生くんはカメラマンさんが狙うポイントなのか、他にも撮られているのを見るけれど、能登さんもやはり撮っていたのだな。羽生くんの視線が鋭くて素敵。
 71ページ上。リンクのフェンス水の流れのよう。プーさんの黄、赤と羽生くんの衣装の青、緑の対比が鮮やか。
 90ページ上。なんともいえない雰囲気のある羽生くんの表情がモノクロームで浮かびあがる感じ。
 105ページ下。練習着好きとしては印象的な写真。背景がリンクの真っ白なところに練習着の羽生くんの、ちょっと両手を広げた輪郭がくっきりと映って、私の好物の練習着の皺もいい感じに見えている。
 112-113ページ。平昌五輪バラード第一番の演技直前と思われる写真。張りつめた静寂が伝わってくる感じ。
 141ページ。私は「白シャツ」というアイテムも大好きなので。羽生くんの笑顔と背景の緑がいい感じ。
 付録のポスターは、前回もそうだったけれどもったいなくて貼れないので、本にはさんだまま保管。
 ところどころに能登さんのコメントがあって、カメラマンさんの心情というものが垣間見えて興味深い。羽生くんみたいな人を撮っていて、そして「いいのが撮れた!」と思えたときは本当にカメラマン冥利に尽きるだろうなあ。前に「カメラマンさんもいいなあ」という記事を書いたけれど『YUZURU Ⅱ』を見ていると本当に能登さんがうらやましくなってくる。
 で、能登さんのNHK講座に今度行ってみることにした。おそらく内容はSNSなどに上げてはダメということだろうからレポートは出来ないけれど、楽しんできたいと思う。

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 スケートカナダ、地上波放送分をチェックしただけだが見応えあった。宇野くんショート2位からの逆転優勝おめでとう。友野くん実力を発揮しきれなかったけれど次戦がんばって欲しい。山下真瑚ちゃんグランプリシリーズ初参戦でみごとな演技、2位おめでとう。新葉ちゃんはフリー残念だったけれど次戦に期待。悠良ちゃんは久しぶりのグランプリシリーズ、これからまた上げていって欲しい。メッシングさん味のある演技で素敵、ジュンファンくんみずみずしくて素敵。トゥクタミシェワ姐さんはショートでの3A成功も含めよく戻ってきたと思う。メドベージェワちゃんすっかり大人の雰囲気になって、ショートの失敗からフリーはよく巻き返した。
 しかしジュンファンくんのフリーの演技、曲が羽生くんの旧ロミオとジュリエットのものとだいぶ重なっているので、頭の中にどうしても羽生くんが出てきてしまう。「ああっ、ここで羽生くんが転ぶぅぅぅぅ」とかなってしまうのはニースロミオ墜ちの宿命か。

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 そして次はいよいよ羽生くんのグランプリシリーズ初戦のフィンランド大会。さて「グランプリシリーズ初戦は勝ったことがない」というジンクスはどうなるか。「フィンランドはげんのいい土地」という実績もあるし、ジンクスが打破されるといいな。


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10.25
Thu
 WORLD FIGURE SKATINGを発行している新書館から出た、羽生くんの歴代のプログラムの写真集。最近のプログラムから過去へと、概ね時を遡る構成になっているのが面白い。私が羽生くんのことをまだ知らなかったジュニア以前の写真もある程度の量があるところは、さすが老舗フィギュアスケート誌を出しているところだなあ、という感じ。徹底して演技中かその前後の写真に絞ってあるあたり「フィギュアスケーター羽生結弦」に焦点を当てたのだという姿勢が感じられる。スケーター羽生結弦がどんな風に肉体を動かし、どんな表情を見せたか、そういったことがよく伝わってくる。戦績リストや曲目リストがあるのもありがたい。記録写真集としてとても充実していると思う。
 写真を見ながら、その当時のことなど思い出したりする。特に「ロミオとジュリエット〈旧〉」は、私が羽生くんに決定的に墜ちたプログラムであり、そして初めて買ったフィギュア雑誌がWORLD FIGURE SKATINGだっただけに印象深い。
 そういうわけで私にとって一番思い入れの深い写真は多分その時の表紙だった74ページ。他に好きな写真を挙げてゆくと、8ページ、21ページ、44-45ページ、52-53ページ、56ページ、76-77ページ、90ページ、123ページといったあたり。
 ジュニア以前の写真を見ていると、その時代の羽生くんをリアルタイムでは知らなかっただけに、演技映像をとても観たくなる。一部は『覚醒の時』に収められているけれども、それ以外のものについても今度あらためて動画めぐりをしようかと思っている。

 ところで、初回限定版についてきた下敷きのようなものはどうすればいいのだろうか。もちろんもったいなくて下敷きには使えないので、とりあえず本にはさんだままにしてある。

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 「応援ありがとうございます! 羽生結弦展」の収益の一部が、羽生くん側とも話し合った結果、震災などの被災地に寄付されるとのこと。たくさんの人が集まり、たくさんのグッズが売れたことがそういう貢献につながるというのはなんだか嬉しい。羽生くんもそういう貢献につなげられたことをきっと喜んでいるだろう。私も現地には行けなかったが通販でグッズを一つだけ買ったので、ほんのわずかだが貢献したことになって嬉しい。


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10.23
Tue
 羽生くんのファンであることに、ある種後ろめたさというか、罪悪感のようなものを感じることがある。
 というのは、私が基本的にダメなやつだからである。頑張るとか努力するとかが苦手で、面倒くさがりの怠け者で、どうせ自分は体力気力に恵まれてないしと云いながらずるずると日々を過ごしている。どの面から見ても非生産的で、何かを成し遂げたとか人の役に立っているとか、実感するようなことは何もない。
 そんな人間が、とても頑張っている羽生くんみたいな人を好きになって、勝手に夢を託して応援なんかしちゃっていいのだろうか、と思うわけである。自分が出来ないことを人に仮託して、その人の夢が叶ったら自分の夢が叶ったかのように喜ぶって虫が良すぎないか?と。そして、私がせいぜいまがりなりにも意欲的になれるのは何かを書くことくらいなのだが、その書くことについてはさんざん羽生くんをネタにさせてもらって、わかったような口を利いたりして、なんだか本当に羽生くんを「いいように利用している」ような気がしてしまったりするわけである。
 それで、先日「今だけ一般公開」されたマイレピの記事(第25回)を読んで、うなってしまった。
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本当に応援っていうのは力に変わっているし、それに対して「ありがとう」って言いたいんですけど、それ以上に、みなさんの力が僕という媒体を通して結果として表れたっていうことは、みなさんにも「おめでとう」ということを伝えたいなって思います。
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 羽生くんは、ファンのみんなの「媒体」として自分のことを捉えていて、そしてその「媒体」である自分を通してひとつの結果が出たことで、応援してくれる人に「おめでとう」と伝えたいと思ってくれているのか……。なんだかこの部分に、羽生くんが、私みたいに情けない人間が勝手に夢を託していたり羽生くんについて勝手に語っていたりすることについても「承知の上です」と広い心で思ってくれているような感じを持ってしまった。だから、羽生くんが自分を媒体として感じてくれて「おめでとう」と伝えたいという気持ちを持っていることに対して「ありがとう」とあらためて思う。

 応援が力に変わるというふうに思ってくれていることについても「ありがとう」と思う。羽生くんが、応援を力と感じてくれて、その力が羽生くんを五輪の表彰台のてっぺんに連れてゆくことに貢献できたのなら、本当に嬉しいこと。「今だけ一般公開」されたマイレピの第24回で、下記のように述べていることも印象的だ。
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表彰台に上がったときが、「一番、今が自由だ」と感じた瞬間でした。結果が全てのスポーツの世界の中で、今まで自分が頑張ってきたことが証明できたと思いました。自分が一位で、一番いい演技をして、何も語らなくても誰にも侵されない領域に自分は立っているんだという感覚でした。それを自分の中で「自由だ」と感じて、とても幸せな瞬間でした。
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 勝手に想像したのだが、このときの羽生くんの心象風景は、表彰台の上から世界の果てまで見はるかすような感覚、心地よい風が全身を吹き抜けてゆくような感覚で構成されているのではないか……。
 いずれにせよ、そういう「自由」を味わえる場所に立てたことに、応援が少しでも力になっているのだったら、本当に嬉しい。羽生くんがそれだけあざやかな「自由」を感じたということは、普段はそれなりに「自由でない状況」が多いことのあらわれでもあると思う。そこからの解放を、ひとときでも存分に味わってくれたのであれば……。

 私はこれからも羽生くんのファンであり続け、応援を続けるだろう。こんな人間がファンでごめんなさい、と時々心の中で謝りながらも。

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 グランプリシリーズがいよいよ始まった。地上波である程度チェックできるのでありがたい。スケートアメリカ、チェンくんがぶっちぎりの優勝だったのはさすがの底力というか。宮原知子ちゃん坂本花織ちゃん、二人ともショート、フリー両方すごくよかった!ワンツーフィニッシュおめでとう。本田真凛ちゃんはフリー残念だったけれど、足首に大事がないといいけれど。


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10.19
Fri
 キシリトールのクリアファイルキャンペーンに関しては「今回はもう、いいかな」という気分に正直なりかかっていた。というのも、数か月前から諸般の事情でほぼ在宅ワーカーとなっている私は、以前のように「出勤ついでに」という手段が使えなくなり、となるともともと面倒くさがりの出不精なので「まあクリアファイルを手に入れることがファンの証明ってわけでもあるまいし……」的なことも思ったりして、さらに今回、扱っているコンビニがデイリーヤマザキとポプラだったのも「もういいや」感に拍車をかけた。ちょっと調べてはみたものの、うちの近辺ではどちらも行くのがちょっと面倒な場所にしかなかったのである。ちなみに私はペーパードライバーで、高齢の父が免許を返上して車を廃車にしてからは、うちには車もない。私がちゃちゃっと車を運転するタイプだったらさっさと行動したかもしれないが。
 しかし仕事関係で昨日、博多駅に出る用事が出来た。博多駅付近ならデイリーヤマザキもポプラもあるのでは、と思い調べてみたら徒歩圏内に二軒ずつある。ならば行ってみようか、と思ったわけである。とはいえキャンペーン開始から二日後、残っている可能性は低いかな、と思ったのだが、ダメ元で行ってみようと。
 結果、デイリーヤマザキのうち一軒とポプラ二軒にはもうキャンペーンの表示すらなかった。そしてデイリーヤマザキのもう一軒、駅からやや離れた方に、二種類だけ残っていた。デイリーヤマザキ限定ではない、共通のデザイン三種類のうちの二種類である。とりあえずその二種類をゲット。
 それで私は思った。博多駅近辺はそりゃ人が多いからコンプリートするのは無理だろう。でも郊外都市であるうちの近辺のデイリーヤマザキやポプラなら、残っている可能性もあるのではないか?
 で、帰りがけに少し時間の余裕があったので思い切ってうちの比較的近辺のデイリーヤマザキとポプラに行ってみよう、と思った。博多駅からJRに乗っていつも使っている駅で降り、そこから自宅に帰るのとは別系統のバスに乗る。そして終点まで行く。その系統のバスで終点まで行くのは初めて。そこはバスの終点だけあって、住宅地がそこまでで終わる、という地点だった。そこから徒歩数分。めざすデイリーヤマザキは人家もまばらな地域の道路脇にあった。
IMG_5994.jpg
 こんな感じのところならデイリーヤマザキ限定ヴァージョンも含めて残っているのではあるまいか、と私は思った。だがしかし。ファイルの数自体はわりと残っていたが、限定ヴァージョンは一枚もなかった!
 しょうがないので、共通デザイン三種類のうち、博多駅付近のデイリーヤマザキでは手に出来なかった一種類のみをゲットして店を出る。そしてバス停に戻り、ぽつんとひとりでバスを待ちながら考えた。写真はバス停のベンチからの眺め。
IMG_5995.jpg
 こんな場所のデイリーヤマザキにすら限定ヴァージョンが残っていないとは、今回のキャンペーンは結構厳しいとは聞いていたが本当だな……。ポプラ行くか?しかしポプラ行くにはまた別系統のバスに乗り換えないといけないし、行ってポプラ限定ヴァージョンなかったらダメージでかいしな。それに日も暮れてきたし。今回は共通デザイン三種類を手に入れたことでよしとしよう。
IMG_6003.jpg
 というわけで今回は五種類中三種類のみのゲットにとどまった。しかしロッテのキャンペーンももう何回にもなるが、クリアファイルの出来としては今回が一番いいんじゃないかと思う。羽生くんはパーソナルカラーがサマータイプであることは以前の記事に書いたが、このブルーグリーンは羽生くんにとてもよく似合う色だし。
 それにまあ、出不精な私が、いつもは行かない場所にまで行って、ごく小さい旅気分を味わったような感覚だった。羽生くんのおかげである。

 しかし「クリアファイルを入れるファイル」をあるとき二冊買ったのだがもういっぱいになってしまっていてこの新たな三枚が入らない。羽生くんのだけでなく、好きなアーティストのやら美術展などで買ったのやら、人からもらったのやらでもったいなくて使えないのを入れてあるのだが、羽生くんものが一番多い。
 そしてまたガーナのクリアファイルキャンペーンも始まるという。今度は対象商品がアイスなのもハードルが高い。見送るかどうか考え中。


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10.15
Mon
 現在発売中の文藝春秋にオーサー氏をインタヴューした記事が載っている。全体的に興味深かったが最後のところが印象的だった。オーサー氏は羽生くんのことを「ステージ上で観客に自分の魂を与えてくれる、特別なエンターテイナーのよう」と形容している。
 そういえば新書館から出た書籍のタイトル(私は未入手だか入手予定)は『羽生結弦 魂のプログラム』である。それから、シェイ=リーン・ボーン氏がこないだ、Originの演技について、最後のポーズは「World of Spirits」にも手を伸ばしていることをあらわしていると述べていた。この「World of Spirits」は「魂の世界」と訳すことも可能である(オーサー氏のインタヴューに出てきた「魂」は原語はsoulだろうかspiritだろうか、気になる)。
 さて、私は「魂」という言葉は、下手に使うと大仰な印象も与えかねないし、あまり好ましくない根性論や精神論の類とも結びつきやすいし、あるいは怪しげな宗教やオカルト方面とも結びつきやすいということで、扱いが難しい、うかつに使えない言葉だなあと感じている。ゆえに、アマチュアとして詩歌を書いているが、そちらでも魂という言葉を使ったことはほとんどない。その、魂という言葉の難しさあやうさについて、またしても河合隼雄氏関連の著作からになるがちょっと引用したい。河合隼雄氏と柳田邦男氏の対話集『心の深みへ 「うつ社会」脱出のために』(新潮文庫)からである。
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柳田:(前略)私、このごろ「たましい」という言葉にものすごく魅力を感じているんです。われわれは戦後の科学主義とか物質的豊かさが進んでくる中で、「たましい」というものを忘れていた。戦前、精神主義がイデオロギー的に日本の国を支配して、そして精神というもののうさんくささにあまりにも警戒心が強くなったために、戦後は科学主義がのさばって、「たましい」とか心というものを怪しげな目で見るようになってしまった。だけど、いまこそ「たましい」というものを見なおさないと、ほんとうの意味での人間の豊かさというものが再建できないんじゃないかということをこのごろ痛切に思っていましてね。(中略)
河合:「たましい」というのは危険な言葉ですから、私はだいぶ長いあいだ言わずに黙っていたんです。(中略)しかし、だんだんそういうことを言えるようになってきました。脳は死んでも「たましい」はあるというようなことが徐々に理解されてきて、そういうものがあるんだったら、その根本に名前をつけていいじゃないかという格好で言ってきたんですね。(中略)
 ただ怖いのは、「たましい」の話を現実の戦争に勝つとか負けるとか、金が儲かるか儲からないかという次元にもっていく人がいることです。これは大失敗する。「たましい」の話は「たましい」の領域で話をしておかねばならないのに、「たましい」の話を他の世界へもっていくと、大和魂で戦争に勝つとか、ものすごくばかげたことをやるわけです。
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 こういうふうに難しい「魂」という言葉であるが、羽生くんという存在は、何か「魂」という言葉を使いたくなるようなところがあると感じる。オーサー氏の言葉にある「魂を与えてくれる」はやはり他の言葉だとぴったりしない。そして、羽生くんがそういう存在だと感じられるゆえに『魂のプログラム』という書籍のタイトルも、ちょっと大げさに感じないこともないが、まあつけたくなるのはわかるなあ、という気がする。ボーン氏も「World of Spirits」という表現を持ち出してきたのは羽生くんだからこそ、という面もあるだろう。そして、私は自分の詩歌に魂という言葉をほとんど使わないと述べたが、その数少ない例外が、以前の記事でも紹介させてもらった、羽生くんの名前を織り込んだこの五行歌である。

 羽撃きはトレモロ
 生の昂ぶりのままに像を
 結びゆく憧れを奏でる
 弦のきらめくわななき
 君の魂の

 ここはやっぱり「魂」でなければならないと思ってあえてそうした。魂という言葉に慎重な私に魂という言葉を使わせる羽生くん。もちろん、私の意図するところは、変に精神論などと結びついた魂ではなく、河合隼雄氏が「たましいのことはたましいの領域で」と述べているような、そういう本当に大切な意味での魂である(そういや以前「練習着好きの魂」「続・練習着好きの魂」という記事を書いたが、それはその時期に羽生くんを扱った「アスリートの魂」が放送されたのもあって、そのもじり(?)である)。
 なぜ羽生くんには「魂」という言葉を使いたくなってしまうようなところがあるのか。それはオーサー氏が「魂を与えてくれる」と表現したように、羽生くんの演技に羽生くんの「魂」があらわれている、とやはり感じられるからなのだろう。
 羽生くんには「負けじ魂」という言葉であらわされるような「根性」と結びつくような「魂」もあるけれども、なんというかそれ以上に、羽生くんの演技には、羽生くん自身の、純粋な意味での「魂」が込められているという感じがする。と書くだけでもなんだか大仰な気がして書くのをためらっている面もあるのだが、あえて書くと、羽生くんの演技には羽生くんの魂が純度高く込められていて、それは時と場合と人によっては、観る側の魂と共振を起こす、みたいなところがあるのだと思う。ボーン氏の云う「World of Spirits」で観る側とつながりあう、と表現してもいいかもしれない。
 何らかの表現活動に携わる人はおそらく皆、究極のところではそういう状態を求めているのではないかと思うし、表現を受け取る側もそういう状態を経験することを望んでいると思う。ただ、それを実現するのはそうたやすいことではなく、また表現する側と受け取る側の波長の相性なども影響すると思う。だから、羽生くんという「魂を与えてくれる」人を観ることが出来て、共振することが出来るということは、やはりある種奇跡的なところがある。ゆえに魂という言葉を使うのがふさわしいと感じられることがままあるのだろう。
 とはいえ、やはり私としてはこの言葉は濫用したくはなくて、これからも使うとしても抑制的に使うつもりではあるけれど。

 以前も書いたが私は若い頃から佐野元春氏のファンである。で、その佐野元春氏に「君が気高い孤独なら」という曲がある。羽生くんのファンになってから、この曲は何となく羽生くんに似合うのではないかと感じるようになった。そしてさっき気づいたのだが、この曲には「魂」という言葉が出てくる(歌詞の全体はこちら)。

 もしも君が気高い孤独なら
 その魂を空に広げて
 雲の切れ間に
 君のイナズマを
 遠く遠く解き放たってやれ

 私が感じるに、この歌詞の「魂」はきちんと余計な意味合いを含まない「魂」の意味で使われていて、しかも歌詞の中に自然になじんでいる。使うならこんなふうに魂という言葉を使えたらなあと思う。


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