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09.29
Sat
 前の記事では「Origin」について主観的な印象を述べたが、この記事では「秋によせて」についてうだうだ勝手に考えたことを述べてみようと思う。
 このプログラムは秋という季節の情感をあらわしているのだと思うが、じゃあその秋ってどんな秋だ?ということが私はちょっと気になったのだった。というのは、秋という季節はどうやら場所によってかなり違った印象で捉えられている季節らしいからである。
 私の感覚では、秋という季節は、夏の隙間に忍び込むように少しずつ始まって、それから「すっかり秋」という安定した時期がしばらく続いて、終わりも冬の始まりと重なりつつフェードアウトしていく、という印象なのである。しかし、ところが変われば秋という季節の印象も全然違うものになるということを木田元氏の書いた『詩歌遍歴』(平凡社新書)という本で知った。木田元氏はこの本でボードレールの「秋の歌 Ⅰ」という詩を村上菊一郎訳で紹介している。全部引くと長くなるので最初の一連だけここにも引用する。

 われらまもなく冷たき闇に沈むらん
 いざさらば、束の間なりしわれらが夏の強き光よ!
 われすでに聞く、中庭の甃石(いしだたみ)に
 悲しき響を立てて枯枝の落つるを

 そして木田元氏は下記のように述べている。
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 それにしてもこの詩、夏が終ったばかりの初秋の歌にしては大袈裟にすぎはしないかと思われる方が多かろう。だが、北緯四十九度、樺太と同じくらいの緯度にあるパリでは、われわれが考えるような初秋などありはしない。夏からいきなり初冬に移るような感じなのである。八月も半ばを過ぎると木の葉が色づき、それがそのまま樹上で枯葉になって、小枝もろとも落ちてくる。(中略)寒く暗い冬の予感におびえる季節の歌だと知れば、ボードレールの「秋の歌」の暗さも少しは理解できよう。
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 パリの秋は、日本の(平均的な)秋とはだいぶ様相が違うのだなあ、ということを私はこの文章で初めて認識したわけである。で「秋によせて」の秋はいったいどちらに近いのだろう、などと思ったわけである。
 作曲者のラウル・ディ・ブラシオ氏はアルゼンチン出身、とすると曲に描かれた秋はアルゼンチンの秋の要素が強いのだろうか。しかしアルゼンチンは南北に長いので、アルゼンチンのどのへんかによっても秋の雰囲気はずいぶん違いそうだ。
 作曲者がどういった秋をイメージしているかは本当のところはわからないが、私の印象としては日本の秋よりパリの秋に近いのではないか、という感じである。始まりの部分から結構重く暗い音だし、主なフレーズの割と劇的なメロディーも、夏から冬への劇的な変貌というのにふさわしい気がする。もっとも、原曲が7分以上あるのを、羽生くんのプログラムでは3分弱に縮めてあるから、そのせいで「夏から冬への劇的な変貌」と感じられる度合いが強まっている可能性はあるが。
 振付のジェフリー・バトル氏はカナダ人、カナダの秋も緯度から考えて日本の秋よりはパリの秋に近そうな気がする。
 羽生くんが知っている秋は仙台の秋とトロントの秋。仙台は日本の中では北の方に位置するから、平均的な日本の秋よりはややパリの秋よりかもしれない。トロントもカナダだし、多分日本の秋よりパリの秋に近いだろう。
 いずれにしても、私が日頃実感している秋よりは、夏から冬への傾斜が急なイメージの秋として捉えた方が「秋によせて」の情感はしっくり来るような気がする。夏が去ってしまった、冬がすぐにやってくる、その狭間の哀愁。
 とかなんとかうだうだ考えないで、ただ羽生くんの演技から「秋」のイデアを純粋に味わえばいいのかもしれないのだが。羽生くんはその演技の独特なしなやかさで「秋」ならではの愁いをみごとにあらわしてくれているのだから。

 余談。上に引用したボードレールの「秋の歌 Ⅰ」には「夏は昨日にして、いまは秋!」というフレーズがある。一方、日本の詩人である立原道造の「また落葉林で」という詩によく似た「いつの間に もう秋! 昨日は/夏だつた……」というフレーズがある。似てはいるが、このフレーズだけでも、パリの秋と日本の秋の様相の違いが何となく感じ取れるのが面白い。
 私は立原道造の詩が好きで、羽生くんにも立原道造的世界が似合うのではないかと思っていたりする。立原道造の詩に曲をつけた合唱組曲などもあるので(あまり詳しくは知らないが)そんな曲をバックに滑ってくれたりしたらいいな、と妄想したりする。

 もひとつ余談。ジョージ・ウィンストン氏の「オータム」というアルバムがある。若い頃ひとしきり聴いて、それから長いこと聴いていなかったのだが「秋によせて」に触発されたのか、ここのところこの「オータム」の中の曲のフレーズが結構脳内で再生されるのである。これも美しい曲たちなので、羽生くんが滑ってもいいんじゃないかな、と思ってみたりしている。フィギュアスケート向けにアレンジしやすいかどうかは素人なのでわからないけれど。


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09.27
Thu
 シェイ=リーン・ボーン氏のインタヴューはsienna様のブログで翻訳を読ませていただきました。感謝。

 ボーン氏の言葉を読んでいると、嬉しくなってくる。羽生くんをスケーターとしてとても評価してくれているのがわかるし、その羽生くんの羽生くんらしさを引き出すべく、振付師としてのエネルギーを最大限に注いでくれているのを感じる。羽生くんが特別で俗世を超えたものがあるというようなことも述べていて、私がかつて書いた記事「羽生結弦くんの超越性」はすごく見当外れでもなかったのだなとちょっと安心したり。
 Originの振付のインスピレイションを古事記から得たというのは興味深かった。夫さんから示唆を得たそうで、夫さんにも感謝したい。SEIREIを振り付けたときも日本文化を吸収してアレンジしてくれたボーン氏、Originも古事記がバックにあると知ると、一層イメージが膨らむ。
 とはいえ、それはあくまでボーン氏が描いたことで、羽生くん自身がどんなストーリーを持っているかはまた別だという。古事記が振付の元になっているとはいっても、そればかりにとらわれて見る必要もないだろう。
 ボーン氏のインタヴューを読んだ後で、改めて羽生くんのOriginの演技を観返して、私なりに感じたのは、古事記やギリシャ神話、あるいは北欧神話や聖書の創世記でもいいのだが、そういったものの要素をすべて含むような普遍的な創世神話とでもいうようなものだった。そこでの羽生くんの動きは、世界を始まらせ、生物非生物あらゆる存在や事象を生み、それらを動かし変化させてゆくエネルギーの流れのように感じられた。そのエネルギーは超越的な霊性を帯びたものでもあり、それでいて同時に、ある種の官能性をも帯びているような……。そして、いろいろな要素が密度濃く詰まっているプログラム構成は、此の世の多様性、豊穣性を象徴しているかのように感じられた。森羅万象やそれを司るもの、という面から、このプログラムはSEIMEIやHope & Legacyともつながりがあり、というかそれらを包含して綴られる一大叙事詩(epic)であるというような感じだろうか。
 と同時に、それは羽生くんというスケーターのこれまでの道のりを描いている叙事詩でもあるのだと思う。スケートとの出会い、プルシェンコ様から受けた衝撃、そして山あり谷あり栄光ありのこれまで……。
 もっとも、羽生くん自身はまだ表現は全然出来ていないと語る。でも「羽生くんが音楽に合わせて滑る」だけでもすでに一定程度の表現は成立する領域に羽生くんは入っているのだと思う。これからさらに、プログラムの完成度が上がって、表現が磨かれてゆくとそこにはますます豊穣な世界が広がるのだろう。楽しみだ。

 ニジンスキーについては私は全く詳しくない上に映像が残ってないからその演技は想像するしかないのだが、おそらくニジンスキーも、超越的な霊性と官能性の両方を表現できる人だったのではないかと思っている。

 「Origin」が壮大な叙事詩(epic)なら、さしずめ「秋によせて」は珠玉の叙情詩(lyric)といった感じだろうか。この二つのプログラムの相補性もいい感じだなあと思っている。おそらく両者とも羽生くんの新たな代表作になり得るのではないだろうか。


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09.23
Sun
 ついにやってきた羽生結弦選手の今季初戦オータムクラシック。何はともあれ優勝おめでとうございます。

 オーサー氏が以前、初戦はうまくゆかないことを「一枚目のパンケーキは必ず失敗する」ということわざ(?)で話していたが、やはり今季も一枚目のパンケーキはうまく焼けなかったと云えるだろう。ジャンプやスピンにミスがあり、演技の完成度としては精彩を欠いたということになるかと思う。
 にもかかわらず、私はこのパンケーキを美味しくいただいた。それは完成度はともかくとして、ショート、フリーそれぞれにプログラムとしての美しさ、音楽との調和性を見ることができたからだろうと思う。
 ショートは哀愁を帯びたメロディーに乗せて、ジョニーめいたしなやかさエレガントさを醸し出しつつ優美に演じている。フリーはプルシェンコめいた威厳を漂わせつつ、壮大さを感じさせるような力強い美しさ。どちらも、プログラムの中のあの要素が好きこの動きが好き、というのを挙げてゆけばきりなくなりそうだ……(一つくだらないことを云わせてもらうと、ショートの冒頭付近の動きが「読書の秋だから本でも読もうか、やっぱりやめたっ」みたいに見える)。
 そしてどちらも、衣装が美しい。ショートは淡いブルーのグラデーションがいい雰囲気。あの色は羽生くんによく似合う色だ。そして羽生くんには珍しくシンメトリーのデザインなのがちょっと新鮮な感じ。フリーは私も含めておそらくファンの多くが待望したであろう黒レース仕立てでゴールドで飾りをつけている。こちらは羽生くんお得意のアシンメトリー。どちらもとても手が込んでいる印象。これから衣装のマイナーチェンジなどあり得るのかどうか知らないが、今季はもうこのままでもいいのではないだろうか。

 そして、羽生くんが今回のプログラムの出来について悔しがっていたのは、やっぱり「らしい」な、と感じた。その悔しさを糧に、羽生くんはまた強くなり、演技はますます美しくなるだろう。
 今季からGOEの付け方が変わった。羽生くんのプロトコルにはやはりまだ数は多くないもののGOE4とか5とかが見えるし、それを見るとなんだか嬉しくなってしまう。羽生くんはきっとGOE欄すべてを5で埋め尽くすことを目標にするだろう。
 これからこの二つのプログラムが試合ごとに磨かれてゆくのだと思うととても楽しみだ。くれぐれも身体には気をつけて、心ゆくまで今季の、自分のためのプログラムを磨き上げて欲しい。


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09.21
Fri
 『プーと大人になった僕』を観に行くかどうかうだうだ考えていた私だが、結局今日行ってきた。堺雅人さんファンなので、本来洋楽は字幕派だが吹き替えの方で観てきた。堺さんの声を堪能。
 映画としても、以前「くまのプーさんと羽生結弦くん」という記事に書いたように、私が原作でキモだと思っている「何もしないでいること」に焦点を当ててくれていてよかったなと思った。
 で、その以前の記事で私はこんなことを書いた。
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 そうか、子どもっていうのは、特に幼い子どもっていうのは「何もしないでいられる」存在なんだな、とあらためて思った。何もせずにぼんやりしていたり、ただ他愛もなく遊んでいたりすることが許される存在。クリストファー・ロビンにとってのプーさんは「何もせずにいられる時間」の象徴なのだろう。
 羽生くんは、わりと幼い頃からスケートをしていたし、早くから才能を見いだされて山田先生や都築先生に厳しく教えられていたりもした。だから、ひょっとしたら、子どもらしく何もしないでいられたような時間は、他の子たちより少なかったかもしれない。だからかえって、子どもらしさを他の人よりも、余計に長く持ち続け、子どもらしさの象徴であるようなプーさんを抱え続けているのかもしれない。
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 これは、ある意味ちょっと違っているかもしれないな、と今日映画を観た後で思ったのだった。
 「何もしないでいる」ということは、ただ単に本当に「何もしない」ことだけを指すのではなく「有用性とは無縁なところにいる」ことを指すのではないかと。役に立つとか、お金になるとかとは関係なく、ただただ、好きなように過ごすこと……。
 私は以前「羽生結弦選手に勝手に「至高性」を見てしまう」という記事で「有用性を超えた彼岸こそ至高性の領域である」とするバタイユの言葉を引いている。そしてフィギュアスケート、氷の上で踊ったり跳んだりするフィギュアスケートは、それそのものだけを純粋に観るとまさしく有用性の彼岸にあるものではないか、と私は述べている。もちろん、現実にはそれによって勝利が得られたり、人やお金が動いたり、などという有用性が付随する要素が多々あるわけだが、フィギュアスケート自体を演じている最中の羽生くんは、フィギュアスケートという本質的には至高性の領域にあるものをそれとして味わい続けているのではないか。
 つまりは、羽生くんにとっては、ある意味フィギュアスケートこそが至高の「遊び」でもあるかもしれない。子どもが無邪気に遊ぶようにただただ夢中になれるもの。羽生くんはとにかく何はさておき「スケートが好き」なのだから……。
 もちろん、羽生くんのスケートにはそれ以外のいろいろな意味がまつわっている。勝利すること、それによって人々を励ますこと……。それらに付随して人やお金やものごとも動くし、羽生くんはアマチュアアスリートであるとはいえ、フィギュアスケートに関するあれこれには「仕事」の要素も多々あると思う。だから、スケートリンクは仕事場という戦場でもあるわけだ。
 だけれども同時に、スケートリンクは羽生くんが好きで好きでたまらない遊びをできる場でもある。羽生くんにとってはスケートリンクが「100エーカーの森(くまのプーさんとクリストファー・ロビンが遊んでいた場所)」でもあるのだと思う。
 今季、羽生くんは自分のために滑ると云った。五輪二連覇したことで「勝利という結果をつかみたい、それによって皆の期待に応えたい」というような有用性からはこれまでよりは解き放たれて、より「至高の遊び」としてのフィギュアスケートが出来るということではないだろうか。とはいえ、やっぱり羽生くんは勝ちたいのだと思うが、それはむしろ、遊びの延長線上のゲームの勝ち負けとして「勝ちたい」という感覚に近いのではないかと思っている。

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 そんな羽生くんの今季初戦が、もうあと数時間後である。私は体力なし根性なしのファンで、羽生くんのためと云えども生活リズムを乱したり寝不足になったりして健康に影響が出るとまずいので、睡眠応援だが。
 さあ、いったいどんな演技を見せてくれるだろう。どきどきわくわく。
 しかし「オータムクラシック」ってなんだか競馬レースっぽい名前だよなあ、と私は前から思っている。そういえば羽生くんはオーサー氏から「ゲート前の馬みたいな時がある」とか云われてたっけ。

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 ちなみに私にとってこのブログは、上記「至高性」の記事の時にも書いたが、有用性は度外視して、書きたいことを書きたいように書く場である。いわば私にとっての遊び場の一つである。ある意味、私はこうして、羽生くんに遊んでもらっていると云えるのかもしれない。


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09.17
Mon
 忙しい中にちょっと隙間時間が出来たので、ジョニー・ウィアー氏の「秋によせて」をまた観返してみた。
 この頃のジョニーは今よりもはかなげな雰囲気で、えもいわれぬ美を醸し出している。もちろんスケートの演技自体も、あらためて観ると流麗でエレガントでとても美しい。
 羽生くんが先日のメディアデーでジョニーの演技について語ったことが印象的だった。「衝撃的だったのは、男性だからこそ出せる中性的な美しさ」と。
 ありがとうジョニーありがとう。かつての羽生くんにそういう衝撃を与えてくれて。こういう雰囲気もありなんだよと教えてくれて本当にありがとう。もしジョニーがいなかったら、羽生くんの演技のテイストも、違うものになっていたかもしれない。「男性だからこそ出せる中性的な美しさ」の模範を示してくれてありがとう。
 そして羽生くんがそれに衝撃を受ける感受性を持っていて、それを自分のスタイルに取り入れられると思える器だったことにも今ものすごく感謝したい気持ちになっている。羽生くんの、そういう要素を感じさせるあんな演技こんな衣装、思い浮かべるとたくさんある。
 ちょっと前に「意味ある偶然」の記事を書いたけれど、ジョニーというスケーターに、物心ついた頃に衝撃を受けたのも間違いなく「意味ある偶然」。本当に、そういった全ての巡り合わせに、心からありがとう。


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09.15
Sat
 今わりと忙しめなのだが昨日のニュースウォッチ9が羽生くんを取り上げたのは観たのでちょっとだけ。
 4Aについて「想像はしてないです。跳びます」とのこと。そう云いきってしまうところが本当に凄いなと思う。
 でも「想像はしてないかもだけど、イメージトレーニングはめちゃくちゃしてますよね?」とツッコみたくなる私であった。

 4Aを跳ぶなら羽生くんだと、私もだいぶ前から思っている。4Aを跳ぶのは羽生くんの夢であり、応援している皆の夢である。
 アクセルは羽生くんにとって特別なジャンプであり「王様のジャンプ」と聞かされて育ってきたとのこと。とするとさしずめ4Aはking of kingsといった感じであろうか。
 羽生くんが想像しなくても、私は想像する。羽生くんが4Aをみごとに跳ぶ姿を。


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09.09
Sun
 二つ前の記事で、出張に『こころの声を聴く -河合隼雄対話集-』(新潮文庫)を持って行っていたことを書いたが、この本には「ニジンスキー」もちらっとだが登場する。河合隼雄氏と白洲正子氏の対談の中である。そのあたりのことが興味深かったのでざっくりと引用する。今日の観点からすると不適切な言葉などあるかもしれないが、だいぶ前の対談の時のものということでご了承願いたい。「青山さん」は青山二郎氏「小林さん」は小林秀雄氏である。
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白洲:とても恥かしい話なんだけど、私、いつか青山さんから、「おまえは、俺と小林のおかまの子なんだからしっかりしろ」って言われたことがあるんです(笑)。
河合:それは名言だ(笑)。
白洲:でもああいうおかまって、つまり精神的なホモというのも今いないでしょう。つまんないおかまばっかりで。
河合:(中略)西洋人の場合キリスト教があるでしょう、キリスト教では同性愛というのは罪なんですよ。精神的おかまの話も、うっかりすると同性愛と間違われてしまう。だからそんな話はものすごく書きにくいし、男性同士の友情の話もしにくいところがあるんです。逆にいえばある一定の距離以上、男同士で近づこうとすると同性愛という形を取らなければ近づきにくいということもあるんです。だけど青山さんと小林さんというのは、いわゆる同性愛でなくても精神的おかまでいけますよね。この可能性というのは、西洋人にはわからないわけです。(中略)それにある一定以上に男同士で仲がいいのは、これはもう同性愛ですよ。そしてそこから非常に強いインスピレイションを受けたりする。例えばニジンスキーと監督のディアーギレフなんかがそうですよね。(中略)
白洲:それにはエネルギーの問題もあると思う。日本人はその前で止める、というかそれを精神の方へもっていくことができるけど、西洋人はそれができないんでしょう。
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 補足しておくと、この対談は白洲氏の著書『いまなぜ青山二郎なのか』を話題の軸としている(私はこの本も持っている。面白い)。引用した部分で「精神的おかま」とされている青山二郎と小林秀雄の関係について「高級な友情」という表現もされている。
 私は、こういった、同性愛そのものではないんだけれどそれに似たような、男同士の緊密な精神的つながりというものに非常に憧れてしまうところがある。白洲氏は、青山二郎や小林秀雄や、そのまわりの人々の交友関係を見て、その中に割り込みたいとやっきになったわけだが、その気持ちはなんだかとてもよくわかる気がするのだ。だから、引用した部分の最初に出てくる「青山と小林のおかまの子」というのは、白洲氏にとってむしろ名誉な称号だったのではあるまいか。
 それはさておき、西洋人にとってはこのような男同士の精神的な強い結びつきというのは難しく、ある程度以上近づくと肉体を伴った同性愛になる、というのは印象的な話である。そしてそこから強いインスピレイションを得たりするのだと……その実例として出てくるのがニジンスキーとディアーギレフなわけだが、フィギュアスケート界隈にもゲイの要素がある人が多いのはわりと知られた話ではないだろうか。羽生くんの周りを見渡しただけでも、オーサー氏、バトル氏、ウィルソン氏、ウィアー氏がいる。おそらく彼らは、同性愛から得たインスピレイションをフィギュアスケートに活かしているのであろう……。
 ただ、このインスピレイションは、そのものずばりの同性愛ではなく、上記対談で云うところの「精神的おかま」の場合にも発生するのであろうと思う。対談の別の箇所で白洲氏が「小林さんの『モオツァルト』、これは青山さんがいなければ、絶対書けなかった」と述べている。これはおそらく、小林さんと青山さんの精神的な関係から『モオツァルト』にまつわる何らかのインスピレイションが働いたということを示しているのではないだろうか。
 さてその「精神的おかま」だが、おそらく(日本人の)男性であれば誰でもそういう経験を持ち得るというものではないだろう。それなりの素養があり、それなりの相手にめぐりあった場合にのみ、そういったある種恋愛以上に強靱で純粋とも云えるようなものを持てるのではないだろうか。
 私はどうも、羽生くんがプルシェンコ様やジョニー・ウィアー氏に対して抱く憧憬、崇拝の念の中にはそういう要素が含まれているような気がするのである(プル様やジョニーの方からも、西洋人として可能な限りの、男同士としての友情が返されていると思う)。そしてそこから、意識的にであれ無意識にであれ、羽生くんはインスピレイションを汲みとりつづけてきたのではないか。
 そしてそのインスピレイションが最大限に解き放たれようとしているのが、今季の二本のプログラムかもしれない。

 バレエに疎いので、ニジンスキーについては、漠然と伝説的なダンサーであることしか知らなかった。羽生くんの今季のプログラムを知ってからネットでちらほら調べてみて、凄い人だったんだなあとあらためて認識した。
 羽生くんとニジンスキーのイメージは重なるところがある。どちらもその時代の尖鋭的ともいえる存在であるということ、ニジンスキーはその跳躍がとりわけ人間離れしていて印象的だったらしいが羽生くんも助走のなさ加減などジャンプが人間離れしていること、どちらも両性具有的なイメージを喚起するところ……。
 羽生くんはきっと私よりずっといろいろとニジンスキーについて調べたりしているのではないかと思う。そこから得たものが、演技にきっとえもいわれぬニュアンスをもたらすのではないかと期待している。


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09.07
Fri
 亡くなられた方に謹んで哀悼の意を表します。
 助けが必要なところに、必要な助けができるだけ早くゆきわたりますように。復旧復興がすみやかに進んで、平穏な日常が早く戻りますように。

 それにしてもここのところ、災害が多すぎる。日本列島のことをよく「災害列島」とも云うけれど……。だから災害は起こるものとして備えをしておかなければならないのだと思うけれど、でもこれ以上災害がどうか起こりませんようにとも思わずにはいられない。

 こういうことがあるたび、自身でたとえばボランティアに行けるような体力気力などがなく、人や物や金を動かせる力がない自分に落ち込む。しかしここで私が落ち込んでいても何がどうなるわけでもないので、微力でもできることをやって、自分の日常を何とか元気に回したいと思う。


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09.05
Wed
 台風お見舞い申し上げます。被害等の復旧が速やかに進みますように。

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 前の記事に書いたように、出張先で羽生くんのメディアデーを迎えることになってしまった私。で、その後、ホテルでプルシェンコ様の「ニジンスキーに捧ぐ」やジョニー・ウィアー氏の「秋によせて」を観たりしていたのである。それでこの二本のプログラムは、羽生くんが十歳前後の頃のものだということに気づいた。
 たまたま出張に持って行っていた本が(仕事とは無関係)『こころの声を聴く -河合隼雄対話集-』(新潮文庫)だった。その中に掲載されている河合隼雄氏と毛利子来氏との対談の中に「十歳」について興味深い話が出てくるのである。河合隼雄氏によると「私」というものが他と違った存在として認識され始めるのがだいたい十歳頃ということらしい。自我とか自意識とかいったものが確立し始める時期ということだろうか。児童文学の主人公も十歳ぐらいというのがたいへん多いそうだ。
 それで、羽生くんが「ニジンスキーに捧ぐ」と「秋によせて」を選んだのは、もちろんそのプログラムがどちらも名プログラムであるからだろうが、十歳前後に観たプログラムであるということもひょっとしたら影響してるかも、なんて思ったのである。
 羽生くんがお姉さんについてスケートを始めたのはそれよりだいぶ前の四歳である。でもそれは大好きなお姉さんと自分がまだ未分化だった時期であろう。そして、十歳前後になって、自我が確立し始めて、他のスポーツではなくスケートをやっている自分、そのスケートが好きな自分をあらためてより明確に意識したのではないだろうか。十歳になる直前の2004年10月には全日本ノービスBクラスで優勝している。そしてその直後にホームリンクが閉鎖になり、練習環境が厳しくなるということも経験している。十歳頃の羽生くんは自分とスケートの関わりについて、その年齢なりに認識を新たにしていたのだろうと思われる。そんなこんなで、その頃の羽生くんはスケートに対してあらためてある種の初期衝動のようなものを感じていたのではないか、という気がする。
 何かを新しいことを始めるとか、何らかの対象に夢中になり始めるとか、そういった時の初期衝動にまつわる記憶には「特別」感がまつわることが多い。たとえば、私にとって羽生くんの旧ロミジュリは、羽生くんファンとしての初期衝動の象徴のようなプログラムでやっぱり「特別」感がある。そんなふうに、羽生くんにとっても、大好きなプルシェンコ様やジョニーの数あるプログラムの中でも、スケートに対するある種の初期衝動のようなものの中で観た「ニジンスキーに捧ぐ」「秋によせて」は特別感があるのではないだろうか。
 以上は私の推測に過ぎないが、いずれにせよ、羽生くんが相当な思い入れを持って今季のプログラムを選んだことは間違いないわけで、その思い入れがどんな世界を展開してくれるか……本当に楽しみである。名選手の名プログラムをオマージュするというのは勇気のいることだけれども、今の羽生くんは、プル様やジョニーに対するリスペクトを込めつつも、自分なりのプログラムとして成熟させられるという自信がついたのだろう。そして、羽生くんならそうやって羽生くんらしさのあるプログラムとして演じてくれると確信を持てるからこそ、プル様もジョニーも、羽生くんがそれらのプログラムを演じることを喜んでくれているのだと思う。

 羽生くんは今季は「自分のために滑る」といった発言もしている。そのために憧れの選手の名プログラムをオマージュするという気持ちは私なりにだがよくわかる。このブログで何度か触れたように私は詩歌を創作するのだが、あるとき大好きな作家の稲垣足穂をオマージュする作品群を作ったことがある。できたものの客観的な良し悪しはさておき、稲垣足穂に対するリスペクトを込めながら、稲垣足穂テイストを自分なりに取り込みながら、それでいて自分らしさを出す、という過程はとても楽しいものだった。羽生くんも憧れのプル様、ジョニーをオマージュするということにきっと芯からの喜びを感じながら演技することが出来るだろう。その幸福はきっと演技に艶をもたらし、観る側を惹きつけるだろう。これらのプログラムの全貌を知る日が待ち遠しい。


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