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05.31
Thu
 忙しくてFantasy on Ice幕張公演関係のこともそれほど追い切れてないうちに、もう明日から金沢公演ではないか。とりあえず、幕張公演のオープニングでのCHEMISTRYとのコラボで羽生くんのパートが初めてのセルフコレオだったことは把握した。昨年の今ごろ「羽生結弦くん、セルフコレオに興味はないか?」という記事を書いた私としてはたいへん嬉しい。これからもどんどんやってくれたらいいな。あと、オープニングとフィナーレの衣装もそれぞれに素敵だった。しかし「Wings of Words」のコラボの衣装は、写真と映像で見る限り申し訳ないが「変衣装」に見えてしまうのだが。ううむ。「ウミウシ」とか「白菜」とかネット上で云われているのを目にしたが確かにそういう感じ。でも現地で観ると印象が違うのかもしれない。いずれにしても、演技の方は羽生くんらしい情感あふれる感じで何より。

 そして、ボーヤン・ジン選手に加えてジェイソン・ブラウン選手もクリケットクラブ移籍とな?なんだかすごく嬉しい。二人とも、羽生くんとの間でいい影響を与え合えそうな感じだし。

 思うように情報を追いきれずにいるのと、クリケットクラブのメンバーの豪華さに眩暈がしてきそうな今日この頃である。


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05.27
Sun
 Fantasy on Ice幕張公演が無事終了したようで何より。トークショーもよかったようで。現地やライヴヴューイングに行かれた皆様がうらやましくて心中じたばたしつつ、ここのところわりと忙しいので情報を追い切れてない。これからしばらくまとまった記事は書けないかも。
 とりあえず、羽生くんのジャンプが一部なりとも戻ってきて何よりである。焦らず、じっくりと戻してくれれば。ルール変更についても、どんなルールでも適応して勝ちに行きたい気持ちを見せているところが頼もしい。
 それにしても気になるのがショート、フリーとも曲はすでに決まっているとのこと。いつ情報解禁になるのだろうか。早く知りたいなあ。


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05.23
Wed
 いつもだいたいそうだけれど、今日の記事は私がそう感じた、そう考えた、ということで、実際は全く違う、という可能性もあるのでその旨ご了承いただきますよう。
 人というものは、心身のエネルギー量が平等にはできていないものだな、とつくづく思う。私はエネルギーが乏しい人間で、世の中のほとんどの人は自分より元気に見える。そういう人間の目で見るせいかもしれないが、やはり何かしら人の目につくほどのものごとを成し遂げる人というのは、エネルギーの量が半端ではないと感じる。単にエネルギーが多いというだけでなく、なんというか「もの狂おしさ」の領域に入っていると感じることが多い。
 たとえば、このエネルギーの乏しい私が、その乏しいエネルギーをふり向けることがなんとか出来るのは、このブログを含めて何かを書くことであって、で、たとえば「つれづれなるままに、ときおり、PCにむかひて、心にうつりゆく結弦のことを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」みたいな感じもなくはない。しかし、先日白洲正子氏の『お能』を再読した話を書いたが、その本に載っている白洲氏の年譜で『お能』500枚を二週間で書き上げた、なんていうのを見ると、もの狂おしさのレベルが違いすぎるよ、と思ったりするわけである。
 そこで我らが羽生結弦氏についてなのだが。成し遂げてきたことはご存じのとおり半端ではない。それと比例して、その内なるもの狂おしさも、多分半端ではないレベルなのではないだろうか。スケートが好き、スケートで勝ちたい、スケートの高みを目指したい、そういったことへの、ちょっと類を見ないほどの強烈な情熱……。
 そして、そういう、ある意味直接的にわかりやすいもの狂おしさだけでなく、私は羽生くんの持つあらゆる他の貌も、もの狂おしさの変形ではないかと感じるのである。
 羽生くんは、それが先天的なものであれ後天的なものであれ、ものすごいもの狂おしさを持って此の世にいる。でも此の世では、そのもの狂おしさをそのままむきだしで常に生きていけるわけではない。羽生くんは、そのもの狂おしさを比較的ストレートに向けられる領域としてフィギュアスケートと運良く巡り会った。でも、スケート以外のときでも、羽生くんの中には荒ぶるもの狂おしさが常にある。それをストレートに出さず、此の世の中にほどよく適応するために、もの狂おしさの一部はいろいろな形に変容を遂げた。それは可憐さだったり、賢さだったり、サービス精神だったり……。それらのどれもがまた半端なく振り切れているのは、それがもの狂おしさの変形であることの一つのあらわれではないだろうか。何をするにしても、どういう状態にあるにしても「もの狂おしさ」が根っこにあるために中途半端がないのではないか、という気がしてならない。
 羽生くんの人生がまた半端なく山あり谷ありなのも、本人の内なるもの狂おしさと呼応したからであろう、という気がする。そして、そのもの狂おしさがもたらす経験の数々が羽生くんという器をさらにきびしく磨き上げ、さらに中途半端なところのないものにしているように思う。
 それから、ファンの熱狂度が高いのも、羽生くんのもの狂おしさが、ファンの人々がそれぞれに多少は持っているもの狂おしさを引き出しているというところもあると思う。
 多彩な貌を見せる羽生くんだが、その魅力の根源はシンプルに一つ、とてつもないもの狂おしさなのだ、といつからか私は感じている。

 思うのは、いつか羽生くんが競技を引退する日が来るということで、その後の羽生くんはそのもの狂おしさを「競技フィギュアスケート」のようにふり向けられる何かを見つけられるのだろうか、ということである。今しばらくは現役を続けるとのことだが――羽生くんがこれからどんな風に生きてゆくのか、目が離せそうにない。

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 羽生くんが米スポーツ専門放送局「ESPN」選出のスポーツ界の“名声ベスト100”を決める「ワールドフェイム100」で日本人で唯一選出されたとのことで、しかもSNSをやっていないアスリートとしても唯一とのこと、これは凄いことだと思う。スポンサー収入も不明とされているとのことで、つまり検索ポイントだけでのランキング入りとのこと。これはまず単純に検索して情報が欲しくなる存在だということもあると思うし、実際に検索をかけてみると、メディアだけでなく個人ファンもいろいろと発信していて、検索のしがいがあるのでますます検索回数が増える、というようなことも起こっているのではという気がする。


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05.19
Sat
 こないだ送ってもらった羽生結弦展の写真集など眺めていると「このひと本当に私たちと同じ時空を生きているんだろうか」という疑問がわいてきたりする。以前も「羽生結弦くんの超越性」という記事を書いたが、羽生くんはどこかやはり普通の人と違う時空を生きているのではないか、と思わせるものがあるのだ。もしかしたら本当にこの人は、身の周りに見えない結界を張っていて、その中で実は私たち普通の人間とは違う時空を生きているのではないか、などと妄想してしまった。
 そんな折り、前の記事のコメント欄で教えていただいたのだが(まあさ様、ありがとうございます)、宗教学者の山折哲雄氏が、羽生くんについて書いた文章が新聞に載っていたそうだ。ものすごく乱暴に要約すると「ニューヨークタイムズに羽生くんが氷上のマイケル・ジャクソンだと表現した記事が載った、マイケル・ジャクソンといえばムーンウォークだが、それで思い出したのが中世ヨーロッパのダンス・マカーブル(骸骨の踊り)である、その共通点は踊り手の肢体を死体に近づける、つまり自動機械的になるということ、また、中世日本の夢幻能についても思い浮かべた、シテの多くは亡霊であり、身体の生々しさを抑えて死=霊の領域に近づくことで究極の花ある舞台となる」そして文章はこう結ばれる。
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 平昌五輪決勝の最終場面、ショートプログラムで首位に立った羽生選手がフリーの演技に滑り出した時、笛が鳴り、映画「陰陽師」の和楽器の音楽が流れた。その時、彼はすでに、マイケル・ジャクソンならぬ、能役者シテの運命を生きていたのかもしれない。
 「氷上のマイケル・ジャクソン」とは、いみじくも言ったのだ。
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 なるほど。羽生くんと能をからめた記事を三本ほど書いた私としては、山折氏も羽生くんと能を結びつけたんだ、ということがなんだか嬉しい。それにしても、マイケル・ジャクソン、ダンス・マカーブル、そして能と、すごい発想の飛躍である。いずれにしても「人間存在としての生々しさが抑えられている」というところがポイントであろう。山折氏の考察では死、亡霊といったものに焦点が当てられているが、それに限らず、普通の人間の生でない領域、といったものを羽生くんは感じさせるといって良いのではないだろうか。
 SEIMEIは陰陽師だから、普通の人間の領域とそれ以外との交差点にいるような人、White LegendやNotte Stellataは白鳥、Hope & Legacyでは自然そのものやその精霊、バラード第一番では音楽そのものと化している、……いずれも、普通の人間の生々しさは抑えられている演技と云える。その点、ロミジュリは人間を演じたものだが、激しい恋と若さという要素で、普通の人間の日常を超越しているようなところがある。オペラ座のファントムはそれと比べると具象度が高いが、しかし恋と孤独と狂気という超越性は帯びている……。
 といったようにプログラム単位で見てもそうなのだが、羽生くん自身も、基本的に生々しさを感じさせない……たとえば勝負に対する執念といったものは見せるけれども、それすらもなぜか生臭くはない……不思議な存在感を持っている。やっぱりどこかなにかが「超越的」なのだ、羽生くんは。だから「結界を張ってその中で違う時空を生きているかも」なんて妄想を抱いてしまうのだ。
 生身の人間に違いないのに(と思うけど)、そういうふうに感じさせる存在感はいったい何から生まれるのだろう。並外れてスタイルのいい容姿や透明感、といったことだけでは説明のつかない何かがそこには介在している気がする。そういうふうになんとも捉えがたいところも、羽生くんの尽きせぬ魅力の源泉の一つだと思うのだった。

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 博多駅に用事があったので、サマンサタバサリゾートに寄って、例のオークションで落札された靴を見てきた。ガラスケースの映り込みがあるので写真はきれいに撮れていないけれども。
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05.15
Tue
 最近、白洲正子氏の『お能』を読み返してみて、特に羽生くんのことを思わせて印象的だった部分がある。「お能の型」という章である。一部引用する。
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そもそも舞の型というものは、ひとつひとつの型を順々に行うのではなく、ひとつの型が終わった時、または終わろうとする時、すでに次の型がはじまっているという性質をもっております。舞はひらべったく型をのべたものではなく、すなわちひとつひとつ離れた別の型を並べるのではなく、つぎからつぎへとひとつの型の上につぎの型が重なり、またその上へと重なることによって舞が成立するのであります。
(中略)この舞の中で「型が切れる」ことがいちばんいけません。型が切れるというのは、その字のとおりであって、「さあひとつすみました」、「さてこの次は」とポツンポツンと舞うことです。
(中略)舞の最後まで、この終わろうとして終わらぬ型がつづいてゆきます。ですから、じょうずな人の舞はなめらかな水の流れをおもわせます。休んだり、あっちこっちでぶつかったりしないのです。
(中略)型が切れる時はひとつひとつの終わりに気が抜けます。(中略)それでは、たとえひとつひとつの型は美しくりっぱであろうとも、舞に余韻を求めるわけにはいきません。こうした失敗は舞にノリ(←この「ノリ」には傍点)というものがなくなります。ノリとは「興にのる」意味でもありましょうか。だんだん見物を陶酔状態にみちびきいれる、リズムといったようなものです。
(中略)「ノリのある舞」には、山の谷間から雲がわきおこり、くずれてはまたわきあがる、あのおもしろさが感じられます。それは見ていてもつきせぬ思いのする景色であります。
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 能とフィギュアスケートはその成り立ちからして全然違うし、そもそも私は能の実際を見たことがないのでそれについて語るのもなんだが、こういった記述を読んでいると、能とフィギュアスケートにはやはり濃厚に共通しているものがあると感じざるを得ない(能とフィギュアスケートの共通点については以前にも記事にした。こちらこちら)。
 以前も書いたと思うが、私はずっとフィギュアスケートを見ていて、かなり上手い人でも、ジャンプの前は「さあここからジャンプですよ」といった感じになって、演技としての流れが切れる感じがするのが残念であった。だからジャンプを演技と一体化させることをものすごく意識していて「助走をしない」羽生くんの演技を見たときにはものすごく嬉しかったのだ。
 フィギュアスケートは氷上で「滑る」という動作をしながら行うものであるから、地上で行う能より、ある意味、ひとつの型が終わろうとするときには次の型が始まっているというような「流れ」には乗せやすい要素もあると思うし、多くのスケーターがそうやって見事な演技を見せてきたと思う。それでもジャンプの前だけは、ジャンプというものがとても負担の大きいものだから、流れが途切れるのも仕方ないのか、と以前は思っていた。でも羽生くんが助走を感じさせないジャンプを見せてくれて、ああ、これが本当にフィギュアスケートの理想型なのだ、と思ったのだった。
 引用した文章にある、水の流れのような、あるいは雲がわいては崩れまたわくような「ノリ」のある演技。観客をだんだん陶酔状態に引き込む演技。いいときの羽生くんの演技というのはまさしくそういうものだと思う。特に私がこの文章を読んでいて思い浮かべたのはヘルシンキ世界選手権でのHope & Legacyであった。このプログラムはテーマ自体が自然ということもあると思うが、まさしく流れるような、そして「見ていてもつきせぬ思いのする景色」を見せてくれて、観る側を陶酔状態に引き込んでくれるような演技だった。あの演技の最中は、きっと観客が陶酔状態に引き込まれてゆくその感覚がまた羽生くんにも伝わり、ますます「ノリ」がよくなるというような相乗効果が起こっていたのではあるまいか。
 タイプは違うが「ノリ」という点ではニース世界選手権でのロミオ+ジュリエットも凄かったと云えるだろう。途中の思わぬ転倒すら「流れ」を途切れさせたのではなくあたかも演技の一部のように感じられたほどの何かが、そこにはあった。

 羽生くんは今どういう状態にあるのだろう。怪我からの回復はどの程度なのか、アイスショーや来季の競技に備えてどんな準備をしているのか。
 羽生くんの云う「パーフェクトパッケージ」は単にノーミスということだけではなく、表現としても完成され、そして「ノリ」のあるものなのだと思う。そんな演技を見せてくれる日を楽しみに待ちたい。

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 羽生結弦展に行った友人が、写真集を買って送ってくれた。感謝。羽生くんはつくづくフォトジェニックな存在だと思う。私が現地観戦した福岡グランプリファイナルの写真が比較的多めだったのが嬉しい。


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05.09
Wed
 少し前から話としては出ていたが本当にそうなるとは、かなりびっくりした。その経緯についてはいろいろな意見や憶測が出ているけれど、いずれにせよ、ロシアの選手が外国のコーチに師事するというのは多分珍しいケースなのではないかと思うので、相当な覚悟のいる決断だったと思う。
 羽生くんがカナダに渡ると聞いたときも「コーチとの相性なんて行ってみるまでわからないところがどうしてもあるから、賭けだな」と思ったけれど、メドベージェワ選手にしたってそうだ。ただ、クリケットクラブは、選手それぞれの個性を尊重するというスタイルが確立しているところだし、うまくゆく確率もそれなりにあるのではと思う。
 メドベージェワ選手は、感情移入型としての表現力にはかなりのものがあると思うし、もちろん技術力もあるので、それがクリケットクラブでさらに「トータルパッケージ」として磨かれてゆくのを期待したい。ロシアの女子選手は全体に短命な印象があるので、それを覆す存在になって欲しい。
 羽生くんと同門になるということで、実際にどのくらい練習時間などが一緒になるかなどはよくわからないが、互いにリスペクトし、高いレベルで影響を与え合えるどうしではないかと思う。羽生くんは自分の中にあるロシア的な要素も意識しているようなので、そういった点でもメドベージェワ選手から何か吸収できるものがあるかもしれない。
 何はともあれ、メドベージェワ選手にとっても、クリケットクラブ側にとっても、よい判断だったと思える結果になるように祈っている。

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 羽生くんのアイスショーIN情報が次々出てきて何より。私は今年は行くことを断念してチケット獲りにも参戦してないのでちょっとさびしいが、いいショーになることを祈る。行かれる方は楽しんでこられますよう。


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05.05
Sat
 Ice Jewels vol. 8の羽生くんインタヴューを読んでいて、全体的に興味深い話がいっぱいだったが、心と身体のバランスは難しいという話が特に興味深かった。とはいえ、その話については、そこで述べられている言葉の意味はわからないわけではないのだが、実感としてつかめない。怪我をしているときにいい集中ができるとか、身体の調子がいいときにむしろ精神の持っていき方が難しいとか、ちゃんと理解したいけれど繰り返し読んでも理解できた感じがしない。
 というのも考えてみれば当たり前のことで、私は羽生くんのように、身体を動かした結果がシビアに判定されるような世界にいるわけではないのだった。つまり、心と身体のバランスが取れているかどうかなんてことをそこまでつきつめて考える必要に追われたことはないわけで、だから羽生くんの言葉を実感的に理解できなくてもそれは当然のことなのだった。羽生くんと私との間にある遠い遠い距離を改めて実感させられた感じである。
 けれど、それならそれなりに何とか自分の感覚でわかる範囲でも理解したい気持ちにはなるのだった。で、怪我をしているときの方がいい集中が出来るというのは、変な欲がなくなるからというところだけはなんとなくわかるような気がするのであった。「今できるだけのことを一つ一つやってゆこう」と純粋に思えるようになるということだろう。このことを一般化すれば、人はある程度の制約がある時の方が「その中で何をしたいか、何をなすべきか」みたいなことが見えやすくなりそれに集中しやすくなるということはあると思う。制約が比較的ないときは、何でもできるような気になって、かえって散漫になったり、あるいは欲張ったりしすぎて、しなくてもいいことをしてしまったり、背伸びをしすぎて失敗したりということがありがちなのかもしれない。
 むしろ何らかの制約がある方が「その制約の中での最大限」を求めて、パフォーマンスがよくなるということはいろいろとありそうだ。考えてみれば、世の中には「あえて制約を設けてパフォーマンスを引き出す」ようなことになっていることもいろいろあるような気がする。たとえば、私は俳句は書かないのだが俳句には憧れがあって、で、俳句というのは五七五という音数だの、その短い中に季語も入れなきゃいけないだの、というすごい制約のある詩形で、でもその詩形をうまく活かしきったときは、ものすごいイメージの凝縮だとか飛躍だとかできたりするわけである。あと、最近、白洲正子氏の『お能』を読み返したが、能というものも「型」という制約で出来ているもので、でもその型を通じて深遠な世界が表現されるわけである。
 思えばあらゆるスポーツだってそうである。スポーツにはそれぞれルールなどの制約があり、その中でプレーヤーはそれぞれ最大限のパフォーマンスを引き出すようにやっているわけだ。フィギュアスケートだって、もちろんルールという制約はあり、そもそもスポーツとしての成り立ちからいって、人間にとってはもともと非常に不自由な環境である氷上で、ブレードのついた靴を履くという厳しい条件で自分の身体をコントロールすることを求めるという非常に制約の強いものなのだった。その強い制約に自分の身体をなじませることが出来た者だけが、陸上ではできないような、たとえばジャンプやスピンなどの素晴らしいパフォーマンスをすることができるのだった。

 なんだか話がそれていったが、フィギュアスケートというスポーツはその制約の厳しさゆえに、身体と心のバランスが特にシビアに問われるのだろうなと思う。そのバランスの点で、羽生くんの場合、身体の側に怪我という「制約」があった方が精神が集中しやすくなるということなのだが……しかしさすがに「集中するためにあえて怪我をします」というわけにもいかないだろうし、何にしても、やっぱり怪我はしないに越したことはないと思う。怪我の程度がひどすぎれば、今季の大部分がそうだったように「そもそもパフォーマンスすることもできない制約」になってしまうし。では、身体のコンディションがいい状態でいい集中を持って行くにはどうしたらいいのか。それについては羽生くん自身が結論を出せていない状態のようなので私が何を云えるはずもないが、どうかそういう方法がうまく見つかりますように。心身共に万全で集中しきった時の羽生くんのパフォーマンスというのをぜひ観てみたいので。

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 羽生くんが約四年半守り通した世界ランキング1位の座を明け渡したとか。考えてみれば今季は怪我での欠場がありポイントが積めなかったわけで、いたしかたのないことであった。むしろ、よくまああの山あり谷ありの中で四年半も1位をキープしたなと改めてそのことに感心するのだった。


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