08.29
Tue
 今回の出演で、羽生くんが喘息持ちであることを「自分にとっては普通のこと」と語ったのはとても印象的だった。
 「普通」という言葉は「大多数の人がそうであること」みたいな状態を指して使われることが多い。ゆえに、時に「普通」という言葉は「普通」から外れるとされる人たちに対してとんでもない暴力にもなり得る。自分の「普通でない」特徴について「普通」と比べて悩んでしまったり傷ついてしまったりという経験がある人はそれなりにいるはずだ。また世の中はどうしても、比較的多数の人に合わせていろいろと物事が動くようになっているから、そこから外れる人には生きづらさがあるものだ。という私自身、ふだん「普通は○○でしょ」といった云い方をついついしてしまうこともあるし「普通」ではないと感じる物事や人の言動などにイラッとしてしまったりもするのだが。けれど、私にとって「普通って何だ?」というのはずっと抱えているテーマと云えるかもしれない。たとえば、私は喘息ではないし、他にも取り立てて云うほどの持病などがあるわけではないけれど、比較的少数とされるHSPであり、そしてHSPという概念を知るより前は特に、自分のHSPなところについて、そうでない比較的多数の人と比べて「どうして自分はこんなに弱いんだろう、余計に物事に敏感ですぐ疲れてしまうんだろう、多くの人が当たり前のように元気にしているあれこれが自分はなぜすんなりできないんだろう」とうだうだ悩んでいたものだ。何はともあれ、これが自分ということを認識して、それはそれとして受け容れようというような心持ちになれたのは比較的最近のことである。他の人はどうあれ、自分はこういう性質、だからそれでできるだけのことをがんばってやってゆけばいいのだと。
 だから、生きている年数が私の半分以下である羽生くんが「喘息であることは自分にとっては普通」という認識を示したのには驚いた。あの若さで、大多数の圧力である「普通」ではなく、自分の「普通」を確立していること、それを他の人に、変な気負いも衒いもなく伝えられること――そこにたどり着くまでにはおそらくそれなりの葛藤や逡巡はあっただろうと思う。やはりそれは羽生くんのこれまでの人生が、人並み外れて密度の濃いものであったことが関係しているだろう。多くの人がしないような経験をたくさん積んできたというだけでなく、それらに対して「多くの」人たちがどんな言動をするか、それを日々実感しながら生きてきたはずだ。大多数の「普通」を意識して、それに対していろいろ考えを巡らしてきたからこその「自分にとっては喘息は普通のこと」だろうと思う。安易なポジティヴ思考などではない自己肯定感。多分この「喘息は自分にとっては普通のこと」という言葉は、宙くんをはじめとして、多くの喘息の子どもたちはもちろん、喘息以外でも、一般的には不利とされるような何らかの条件を持っている多くの人たちの心に響いたのではないだろうか。
 というか「普通」とか「多数派」とかに当たるとされる人たちでも、一人一人はみんな違う、単に「普通」単に「多数派」な人なんていない、ただ「普通」とか「多数派」とかについついもたれて安心したい気持ちを人は持ちがちなだけ、そこまで羽生くんはしっかりと見据えているのではないかという気がする。

 さて、日本テレビの今回の羽生くんの出演に関してのツイートが「病気を言い訳にせず」というフレーズを入れたことで物議を醸したようだ。羽生くんの出演を伝えるニュースの時点で「病気を言い訳にせず」というフレーズがあって、その時から何となくまずいんじゃないかなあという気がしていたが、やはり批判を浴びたようだ。その批判に対しての批判もあるようでなかなかたいへんだが、私個人としては「病気を言い訳にせず」という言葉のチョイスはやはり軽率だったのではないかと思っている。まあ日本テレビの担当者は、限られた字数の中で、それなりにわかりやすく、人目を引く形で伝えなくてはならないという使命があって、それは結構たいへんだろうと同情する面もあるが。
 「言い訳にせず」がまずいのは、羽生くん自身が実際にはそういう文脈で語っていないということはもちろんだが、批判に寄せられたように「できないという言い訳に病気を使っていると思われては困る」という状況の人への配慮に欠けたということが大きいと思う。喘息と一口に云っても、人によって症状の重さや、どんなきっかけで発作が起きるのかなどの状況はさまざまだし、無理をしてがんばったりすれば命に関わりかねない。そのほか、病気であれなんであれ「もうすでに精一杯頑張っている」とか「がんばりたくてもがんばれない」状況にある人に対して、悪気はないのかもしれないけれど「◯◯を言い訳にせずにがんばれ」などと安易に云ってしまう人というのは残念ながら存在するわけで、そしてそういう言葉はかけられた方にとっては非常に辛いものである。たとえばうつの人には基本的に「がんばれ」と云ってはいけないことは以前と比べて知られるようになってきたと思うが、今回物議を醸したことで「◯◯を言い訳にするな」という言葉も云われた人の状況によっては非常に傷つくものであるという認識が広まればいいなと思う。羽生くんも自分のエピソードが変な根性美談に仕立てられることを望んではいないだろう。あくまで、自分の持つ条件は自分にとって普通であると認識し、人と比べず、がんばれることをがんばればいいのだ、というのが伝えたかったことのはず。それぞれの人が自分なりの目標や勇気の出し方を見つけるために、羽生くんのあり方がきっかけになったり参考になったりしてくれればいい(羽生くんが清水さんに励まされたように)と思っての出演であったはず。

 と、言い訳だらけで努力が嫌いで羽生くんの爪の垢でも煎じて飲むべきだろう人間は思ったのだった。

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 ユリア・リプニツカヤ選手が引退と報じられている。云われているように拒食症などがからんでのことだったらなんだかつらい。今後の道に幸多からんことを。「シンドラーのリスト」は記憶に残る名プログラムだと思う。


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08.27
Sun
 昨日の24時間テレビ、羽生くんの部分は全部収録済みの映像でほっとした。いろいろ感想はあるが、今日はスケートに関することについて。喘息に関することについては後日別記事にする予定。
 郷ひろみさんとのコラボ「言えないよ」はよかった。4T4T3Aという構成もすごかったし、曲の情感によく合った、でも情感が過剰に溢れすぎというわけではないきれいな演技。昨シーズンくらいからビールマンのほどき方が格段にきれいになっていると思うが今回も。歌つきのプログラムだとよくするように、今回もところどころ歌を口ずさんでいるらしい様子も印象的。三年前の映像と特に見比べることはしていないが、おそらくメロウな雰囲気が増しているのではないだろうか。あと、同じ衣装を着ていても、三年前の方がやや華奢な印象だった気がする。ちょっとたくましくなったのを実感できた感じ。
 宙くんの目の前で見せるのなら難しい構成でやりたかった、というのもいいなあと思った。スケートに限らず、どんなものごとでも、やっぱり本当にいいものを目の前で見るというのが一番、向上心をそそられもするし、羽生くんが云っていたようにイメージがつきやすいというのは確かだと思う。羽生くん自身、たとえばチャン氏のスケーティングを始めて目の当たりに見たときに衝撃を受けたとか、そういう経験がいかに自分の糧になったかということを実感しながらここまで来たのだと思う。そういうことを自分も次世代に伝えてゆきたい、という心がしっかりあるのがわかってなんだか嬉しかった。スケートは楽しいものということを忘れずに、ということも。
 にしても、宙くんとの練習風景をできればもっとじっくり見たかったなあと思う。厳しめだったと本人は云っていたが具体的にはどんな感じだったのだろう。「あと2回回れば4回転」というあたりにちょっとしたSっ気があらわれていた気はするけれど。


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08.23
Wed
 漫画家の藤本タツキさんが羽生くんのイラストを描いたという話題が先日出たが、それに際しての羽生くんの、漫画に強い影響を受けるというコメントも印象的だった。私も、子どもの頃に漫画のシーンが印象に残りすぎて夜眠れなかった経験などあるのでわかるような気がする。漫画というのは静止画で誇張や省略を駆使している分、頭の中にイメージを残す力はかえって強いというところはあると思う。羽生くんはもともとのイメージ能力が高いから、漫画からでも人一倍イメージを喚起されてしまってどっぷり影響されるんだろう。
 好きな漫画はファンタジーとスポ根(記事では「スポ魂」表記になっているがおそらく「スポ根」の誤字かと。でもまあ「スポーツに魂入れている」みたいな感覚でとれなくもないけれど)ということだが具体的にはどの作品なのか知りたい。しかし羽生くん自身が、見た目や雰囲気はファンタジー、中身はスポ根の人である。此の世離れした存在感を持ちながら、やっていることは「思いこんだら試練の道を行くが男のど根性」である。まあ、実際には限られた練習時間で効率的に効果を上げるために、合理的な方法をよく考えて取り組んでいて、根性論的なむやみやたらと頑張るみたいなことはしていないと思うのだが。でも本人の精神構造はスポ根そのものなのだろう。きらきら光る王者のしるし五輪の金をつかむまで血の汗流せ涙をふくなゆけゆけ結弦どんとゆけ。
 というか、羽生くんは二次元クラッシャーだの歩く少年ジャンプだの云われていたりして、容姿があれだしこれまでの経歴があれだし、漫画以上に漫画的と云っても過言ではない。漫画好きの友人曰く「もし仮に漫画家さんが羽生くんのような設定でキャラを作ったら、担当編集者さんに『盛り込みすぎです』って却下されると思う」。

 さてここから先は私個人の趣味嗜好が強い話になる。
 私はどちらかといえば漫画をあまり読む方ではなく、結構有名な作品でも中身やキャラクターを知らなかったりすることもわりと多い。でもその一方でどっぷりはまった作品というのも少ないがいくつかある。そのうちの一つが、少年ジャンプ黄金期を担ったとされる作品の一つ『幽☆遊☆白書』である。かなりメジャーな人気を博したのでご存じの方も多いと思う。
 妖怪などがたくさん出てきたり霊界や魔界といった場所が出てきたりもするしで、そういう意味ではファンタジーである。しかし主人公やその仲間と、敵キャラとのバトル的要素が強く、主人公が次々現れる強敵に対して鍛錬を積みながら強くなってゆく様子はスポ根ものの要素も含んでいると云える。
 私がとことんはまったのは蔵馬というキャラである。とある事情で人間の身体を借りている妖狐であり、主人公の仲間となる。人間としての姿は女顔の美少年で、頭脳明晰(おそらく理系)、ふだんは穏やかで丁寧な語り口、若干の茶目っ気あり、でも戦闘モードに入るとめちゃくちゃ怖いというギャップがある、という、何やら羽生くんに通じる要素がいろいろあると感じられるキャラなのである。だいたい私は「頭脳派美形」と「ギャップ」に弱いらしい。そういえば蔵馬は母との絆の強さでも羽生くんと通じるところがあるかも。そして、この蔵馬にまつわるシーンは何かと耽美心をくすぐる要素があったりするのである。
 一方、主人公の幽助という少年はいわゆる札付きの不良少年なのでそういう意味では羽生くんのキャラとは違うのだが、バトルマニアで、強い敵と戦うことに喜びを感じる、みたいなところは、強いライバルが出てくるのを喜んだり高難度ジャンプに挑まずにはいられなかったりする羽生くんを彷彿とさせる。
 云ってみれば、この『幽☆遊☆白書』という作品のスポ根的な部分を主に担っているのが幽助、ファンタジー的な部分を担っているのが蔵馬という見方もできるわけで、その両方の要素を持っているのが羽生くんだな、という感じである。
 作者の冨樫義博さん(奥さんはメドベージェワちゃんが大好きなセーラームーンの作者武内直子さん)は耽美モードな絵も描ける方だし、羽生くんを描いてみてほしいなあと思っていたりする。冨樫さんが(休みがちだが)現在ジャンプに連載している『HUNTER×HUNTER』は羽生くんは読んでいるだろうか。私はこれもコミックスを全巻持っていて、もちろん贔屓はクラピカである。
 あと『幽☆遊☆白書』のアニメで蔵馬を担当した緒方恵美さんの声もすごくよかった。もしアニメで『羽生結弦物語』みたいなのができるとしたら、羽生くんの声は緒方さんでもいいかも、と思っている。そういえば羽生くんが似ていると云われるエヴァンゲリオンのシンジは声が緒方さんだったっけか。

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 あいついで発表される羽生くん表紙の雑誌画像を見て「白Tシャツが似合うという暴力……」とつぶやく今日この頃。

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 今朝唐突にAir Supplyの「I’ll never get enough of you」を羽生くんが演じたらいいかも、と思った。現場の人じゃないので実際にフィギュアスケートで演じやすい曲かどうかはわからないが、透明感と情熱にあふれた感じが似合うんじゃないかなあ、と。どちらかというとエキシやショーナンバー向きだろう。そして、この歌の本来のラヴソングとしての意味あいは別として、サビのところで印象的に繰り返される「I’ll never get enough of you」というタイトルフレーズは、羽生くんのスケートへの思いのようでもある。あ、ファンの羽生くんへの思いのようでもあるな。


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08.21
Mon
 先日、横浜銀行アイスアリーナで、羽生くんのエキシビションとスケート教室が無事に行われたようで何より。震災後一時身を寄せていたリンクに恩返しができて羽生くんも嬉しかったのでは。演目が久しぶりの「花になれ」だったけど実はSEIMEIをやりたかったとかジャンプ構成が4T3A4Tだったとかでびっくり。演技をフルで観てないからわからないけれど「花になれ」も曲調から云うとジャンプを流れに溶け込ませなければならないタイプだと思う。そこで4T3A4Tということは本当に4Tに自信がついたということなのだろう。あとはくれぐれもリスフランさんを大事に。
 それにしても、スケート教室に当選した子どもたちがうらやましい。まあ私が仮に当該地区の子どもだったとしても、たしか条件が「自力で滑れる」だったと思うからおそらくその点でアウトだっただろう。いや、仮に「年齢、能力不問で羽生先生が指導してくれます」という企画があっても私は応募しないだろう。だって、羽生先生がいくら上手に教えてくれてもうまく滑れなくてげんなりさせてしまいそうだから。あと、羽生先生が子どもたちに「いっぱい転んで」みたいなことを云ってたけれど、さすがにこの歳になって下手に転ぶと、打ち所が悪ければ相当ダメージがでかいと思うので。
 さて、今回のイベントの件についてもいろいろな記事が出たが、こちらのNumberWebの記事にあった、下記の記述が印象的だった。
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 そこにうかがえたのは、決して上からではない目線の低さと、シンプルな言葉、そして比喩や擬態語の使い方の上手なところだった。姿勢について「頭の上からぴーんと吊るされているように」と説明したり、「その姿勢で前へ進みましょう。トントントントン、と」といった具合だ。子供たちの年齢は低い。手振り、身振りを交えながらもいかにして短い時間で、言いたいことを伝えるか。教え方にも、羽生が持っている一面が見えた。
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 「ループはシュッ、パッ」とか云っている羽生くんも、多分いざ教えるとなると、どういうふうに云えば伝わりやすいかをちゃんと工夫して云える人なんじゃないかと思っていたが、やっぱりそうだったか、という感じ。
 私は自分が運動神経が鈍いし、人に運動に関することを教えるということがあり得ないので推測で云うのだが、そういう、身体の感覚や動作の感覚というものは、それ自体をダイレクトに言葉にすることはほぼ不可能、ということは、うまく教えるには、その感覚のイメージをうまく作れる言葉をいかにうまく選ぶか、ということになってくるのだと思う。つまりは、上記引用にあるように「比喩や擬態語」がうまく使えるかどうかにかかってくるのだと思う。多分羽生くんはイメージ能力と、言語能力の両方が高いので、そのへんがとてもうまくできるのだろうと思う。さらに、羽生くん自身も、多くの人から指導を受けてきたわけで、どういう指導を受けたときにうまくイメージが作れて、できないことができるようになったか、あるいはもっとうまくできるようになったか、といったことが頭の中の引き出しにきっといっぱい入っているのだと思う。そういうのを的確に引き出して使うことができる能力もきっと高いのではないだろうか。それはきっと、日頃スケートノートをつけたりするマメさとも大いに関係があるのだろう。そして、相手の年齢やレベルに合わせて伝わりやすさをきちんと考えて言葉を選ぶというようなことも、きっと日頃多くの人たちに誠実に接しているからこそできるのだろうと思う。

 というかそもそも、子ども相手のスケート教室を臆せずやれるだけでも私はめちゃくちゃ尊敬する。私は正直子どもが苦手なので。身内や友人知人に幼稚園や学校の先生がいるが、子ども相手の仕事ができるというのは本当にすごいなあと思う。いや、仕事でなくても、世の中で育児ということをなさっている多くの方々を私は本気で尊敬している。
 羽生くんは子ども好きみたいだし子どもからも好かれるみたいだし、今回のスケート教室の様子を見ていても、将来子どもを教えることになっても自分の子どもを育てることになっても、いい指導者、いい親になるんだろうなあと思う。子どもが苦手ということでなんだか世間様に対して後ろ暗いような気がしている私は、羽生くんが子どもたちに関わっている様子のきらきらしたまぶしさを、遠くの物陰からこっそりというような気分で見るしかないのであった。


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08.19
Sat
 発売日よりやや遅れて入手。
 田中宣明さん、能登直さん、田口有史さんというフィギュアスケート撮影に実績のあるお三方の写真で構成されていることもあり、とても見応えのある写真集だと感じた。各出演者の、絵になる瞬間をピシッと切り取っている質の高い写真が並んでいる。現地に行った私としては記念になるし、それに現地に行ったとはいえ私の場合一公演のみなので、他の公演のこともこの写真集である程度はわかるのが嬉しい。あと、現地ではやはり衣装の細部などはあまりよくわからないので、それが写真集ではわりとよく見えるのも嬉しい。
 特にいいなあと思った写真は39ページのウィアー、71ページのプルシェンコ、96、97ページ見開きのフェルナンデス(敬称略)。156、157ページの主な出演者の写真が並んでいるところもいい。
 欲を云えば、オープニングとかエンディングとかの群舞の全体像かそれに近いものをダイナミックに見せてくれるような写真があるとよかったなと思った。あと、それぞれの写真がどの日の、なんという演目だったのかがわかるようになっているともっと嬉しいかも、とか、巻末に各公演日の各出演者の演目名の一覧表とかあるともっと嬉しいかも、というのはあるけれど。

 ところで、主として「羽生くんの写真が少ない」ということでamazonのレビュー欄がわりと悲惨なことになっているようで。私はその件についてはあまり気にならなかった。というのは、Fantasy on Iceの公式フォトブックという性質から考えて、羽生くんの写真の割合がとても高い、ということにはならないだろうな、と最初から思っていたので。めくってみてむしろ、思ったより載ってるじゃん、という印象だった。確かに出演者の中では羽生くんが圧倒的な一番人気だろうし、座長的な位置づけでもあるのだけれど、だからといって羽生くんの写真を人気に比例するだけの分入れると公式フォトブックとしてはバランスを欠いたものになってしまうだろうし。
 というか、私は集英社の回し者ではないのだが、全体のバランスを崩さない範囲で、羽生ファンの要望にできるだけ応えようと、作り手側は結構短い制作期間の中で涙ぐましい努力をしたのではないかと思ってしまった。他の多くの出演者が個人プログラムを複数演じている中で、羽生くんは個人プログラムはバラ1だけ、という状況で、それでも羽生くんの個人ページに割いているページ数が他の誰よりも多いわけである。だからだろう、他の出演者は個人プログラムだけで個人ページが構成されているが、羽生くんだけオープニングやエンディングの写真が含まれている。あと、最後の方にいろいろな写真集めましたコーナーみたいなPHOTO GALLERYがあるが、その中にも羽生くんだけが映っている写真や、羽生くんが目立つ写真がわりと多い。まあとにかく私としては、直接は観られなかった熊や猫の写真が載っていることもあり、少なくとも合格点は出せると思っている(熊や猫、って続けて書けば熊猫、すなわちパンダではないか。羽生くんは客寄せパンダとしての実力は絶大である。いや、客寄せパンダというと「人気だけで実力がない」みたいに揶揄的に使われる言葉だが、羽生くんはちゃんと実力も伴っているわけなのだが。というか客寄せパンダという言葉を揶揄的に使うのはパンダに失礼ではないか。とちょっと脱線してみる)。欲を云えば、羽生くんの迫力ある写真を見開きで載せてくれているところが一つはあってもよかったかな、とは思うけれど。
 ところで羽生くんの個人ページの撮影が能登さんと田口さんだけなのは、田中さんはSEASON PHOTOBOOKを担当しているのでその兼ね合いだろうか。

 まあ羽生くんの扱いについては人によってスタンスが違うので意見もいろいろあると思うけれど、それはそれとして、アイスショーの写真集、としては、とてもいいものになったんじゃないかと思っている。


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08.17
Thu
 昨日は子どもスケート教室だの、藤本タツキさんが羽生くんのイラストを描いたの、結構報道がたくさん出たが、とりあえず、スケート教室の方で「いつか一緒に試合できるのを楽しみにしています。それまでおっさんも頑張るよ」という発言があった件について。折しも前の記事のコメント欄で「羽生くんの今後の展望」が話題になっていたりするので。
 これは、たとえば尊敬しているプルシェンコ様並みに長く現役を続ける意志があると解釈していいのだろうか?今回の対象の小学生たちがシニアデビューするにはあと数年かかるわけだし。
 競技者羽生結弦をできれば長く見ていたいなあ、という気持ちはあるので、そうだったらいいな、と思ってしまうがどうだろう。もちろん、身体に負担がなければだが。プル様をリスペクトしていると云っても、プル様みたいに手術を繰り返すようなことにはならないで欲しいが。

 結弦がおっさんになっても 試合に出てくれる?
 派手な衣装も無理じゃないわ 若い子にも負けない

 などと思わず口ずさんでしまうのであった。

 しかし羽生くんの中の「おっさん」の概念はあまりよくわからないし、羽生くんが「おっさん」というものになるというのが想像しづらい。しかしいずれ羽生くんも、世間一般的には「おっさん」と呼ばれるような年齢にはなるわけである。その頃どんなふうになるだろうか。私は今のところ、野村萬斎さんと及川ミッチーさんの中間地点みたいなところに着地するのではないかと勝手に想像している。



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08.15
Tue
 私はスポーツするのが苦手だ。体育の授業なんてなければいいのにと思っていた。体育さえなければ私の性格はもっと明るくほがらかだったんじゃないだろうかと思っていた時期もある。多分そこそこ普通以上にスポーツができる多くの人は、たとえば思ったようにできなかったり試合などに負けたりした場合「くやしい」と思うのだと思う。でも「くやしい」と思えるのは多分「もっとがんばればできるようになるはず」と思えるからで、私はその「がんばればできる」感覚すら持てなかったので、できなかったり負けたりしたらただただ「みじめ」であったし、また実際できなかったり負けたりばかりしていたわけである。大学の教養課程を終えて「体育」という科目とさようならできたときのあの解放感よ。
 そういう人間だが、テレビなどでスポーツを観るのは、種目にもよりけりだが基本的に嫌いではない。優れた身体能力を持った人がそれを発揮している姿を観るのはいいものである。それにテレビに映るようなレベルのスポーツだったら、多分私のように「体育なんかなければいいのに」というような人はそこに含まれていないだろうから安心して観ていられる。勝者と敗者はスポーツである以上必ず存在するけれど、敗者である人たちも、好きこのんでそのスポーツの場に身を置いているのには間違いないだろうから。
 しかし自分がスポーツできないひがみのせいか、スポーツというものについてひねくれた視点で観てしまう部分というのはあるのだった。スポーツというものにはスポーツマンシップというものがあって「ルールに則って正々堂々と」することになっているけれども、要するにスポーツって、ルールに則った範囲内で、いかに「相手の嫌がることをするか」だよな、と感じるわけである。一般社会のモラルでは「人の嫌がることをしてはいけません」だけれど、ルールに則って正々堂々と「人の嫌がることをする」のがスポーツだよな、と。対戦相手に対して、効果的に上手に意地悪できればできるほどスポーツ選手としては強い、ということになるわけである。たとえば野球だと、ピッチャーは「そこにそういう球を投げられたらイヤだ」というところに投げようとするわけだし、バッターは「そこにそういう打球を飛ばされたらイヤだ」というところに打とうとするわけである。テニスも、私はほとんどわざわざは観ないがニュース映像などでちらっと観ただけでも「ああ、いかに裏をかくか、隙をつくか、つまり、ここに打たれたらイヤだというところに打ち込むか、だよな」と思ってしまう。そういう、はっきりとした対戦型のスポーツだと、試合中は云ってみれば壮絶な意地悪合戦である。
 そこへ行くと、直接対戦型のスポーツではないフィギュアスケートは意地悪要素はないように見える。しかし間接的な意地悪要素というのはやっぱりあると思うのである。試合本番までの心理的駆け引きの要素がフィギュアスケートにもあるわけなので。公式練習や六分間練習での調子の良し悪しで他選手にプレッシャーをかけることができたりできなかったりするらしいし。また「漬け物石」という言葉があるように、試合の演技順などによっては後の選手にプレッシャーをかけることができる場合もある(だから、人によっては前に演技した選手の得点を聞かないようにしたりする)。あと、五輪や世界選手権など大事な試合に向けては、そこまでのグランプリシリーズなどの戦績や得点で、いかに他選手に「いやーな感じ」を与えることができるかというのもあると思う。
 そういう間接的な意地悪要素として「プログラムの選び方」というのもあるよなあ、と思うのである。その見地で「過去プログラムの再演」という戦略を考えてみる。そうすると「ある程度以上の実力の選手が、過去にしっかりと評価されたプログラム」を再演する場合というのは、新プログラムよりも他選手に与える威圧感みたいなものはより大きい気がする。「新プログラムで5クワド入れます」というより「以前評価された、自信のあるあのプログラムをヴァージョンアップして5クワド入れます」の方が、他選手にとって「自信のあるあのプログラム」の具体的イメージがはっきりあるだけに、より「いやーな感じ」を与えやすい気がする。
 そこへ行くと羽生くんの今シーズンの戦略は「以前評価された、自信のあるプログラム」なんてもんじゃなく「今なお誰にも追いつかれていない世界最高点を更新した実績のあるものを、さらにショートとフリー両方そろえてヴァージョンアップして再演します」である。この威圧感は結構すさまじいのではないだろうか。そもそもヴァージョンアップ前のものでさえ、おそらく他の選手たちにとっては「連邦軍のモビルスーツは化け物か!」(byシャア・アズナブル)くらいのインパクトはあったと思うのである。それをさらにヴァージョンアップというとこれは結構強烈な意地悪である。というか、現時点でそういう意地悪をかませるのは男子シングル界では羽生くんしかいないわけで、羽生くんは要するにぶっちぎりの意地悪ナンバーワンである(オーサーコーチがこの戦略についてtrickyという言葉で表現しているが、他の選手たちには真似したくてもできない戦略だという意味あいも含んでいる気がする)。
 さてこれから今シーズン、その意地悪がどう功を奏するか見届けるべく、テレビの前に坐って「白い衣装の選手が勝つわ」と、ララァ・スンよろしく予言して差し上げよう。SEIMEIの衣装が変わって白でなくなる可能性もあるかもしれないが(でも個人的にはSEIMEIの衣装はやっぱり白基調がいいと思う)。

 誤解のないように改めて断っておくが、私はスポーツする人がみんな意地悪な根性を持っているとか、羽生くんが本当に意地悪な人格だとか云いたいわけではない。私はスポーツを自分が進んでやらないからわからないが、スポーツする人はきっと「勝ちたい」とか「よりよいプレイをしたい」と純粋に思っているのであって「対戦相手に意地悪するぞ」という感覚で向かっているのではないのだろうと思う。ただ、スポーツのできないひねくれた私の色眼鏡で見ると、いろいろなスポーツは意地悪合戦に見え、羽生くんはフィギュアスケート界の意地悪王に見えるという話である。
 まあ仮に羽生くんが本当に意地悪だとしても、それがフィギュアスケートという競技の枠内のことでルール違反をしていない限り、私としては全くかまわないのであるが。

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 羽生くんはおそらくもう帰国しているのだろう。五輪の年くらい、帰国なしでトロントでじっくり練習を積ませてあげたいなあという気もしないことはないが、帰国することが羽生くんにとってもリフレッシュになるのかもしれないし、できるだけ諸々の負担が少ないことを祈りつつ24時間テレビなど楽しみにさせてもらおう。

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 これは、東京在住の姉から送られてきた写真。先日仙台に行ったそうで、青葉城趾のおみやげやさんに貼ってあったとのこと。私もまた仙台行きたいなあ。
image4.jpg


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08.11
Fri
 過去記事(こちらとかこちらとか)で、バラード第一番を女性に喩えて、羽生くんが最初なかなか手こずったが、結局は口説きおとして、そしてこれからさらに愛を深めようとしているのではみたいな話を展開した。で、この場合のバラ1は、云ってみればすでに完成された憧れの女性として羽生くんの目の前にあらわれて、羽生くんが一生懸命アプローチした、という感じだと思うのである。
 そういう喩えの延長線上でSEIMEIを見てみた。そうすると「羽生くんが自ら素質を見いだして自分の理想の女性とするべく手塩にかけて育て上げた存在」ということになるような気がしてきた。選曲にも編曲にも積極的に関与し、編集の矢野さんに32通りものアレンジを作ってもらって完成にこぎつけ、さらには自分で「SEIMEI」という名まで与えるというこだわりぶり。オリジナル曲ではないけれど、オリジナル曲に近いくらいの感覚はあるのではないだろうか。
 そして実際、SEIMEIは羽生くんの理想通りの女性に育て上がったと云ってもいいだろう。なんせ二度も世界最高点を更新している。
 そういう観点で見ると、そりゃ「一番大事な五輪の場にはこの女性と一緒に」って思うわな……という感じである。「SEIMEIは磨き上げればもっといい女になるし、オレもSEIMEIと一緒ならもっといい男になれる」みたいな感覚もあるのでは、と。
 ついでに喩えておくとHope & Legacyは、バラ1とSEIMEIの両方の面影を宿しているので、羽生くんとの基本的な相性はばっちり、ただちょっと気難しい女性だった、という感じかも。

 というような私の喩えが適切かどうかはわからないが、でも羽生くんは音楽との関わりにおいて恋愛と似たようなエネルギーの使い方をしているのではという気はする。少なくとも「曲の中で誰かの恋愛を表現する」よりは「自分自身が曲と愛し合う」というような感覚の方が性に合っているのではないかと思うのだがどうだろう。羽生くんはなんといっても自我の強さは折り紙付き、今回の選択に関しても「自分でいられる曲」というようなことを云っている。バラ1やSEIMEIは他の人になりかわる必要がなく(安倍晴明というキャラクターはあるがそれはほとんど羽生くん自身と同一視されているといっても過言ではないし、もともとかなり抽象的なキャラクターである)「自分と音楽」という純粋な状態でいられるということだと思う。そういうときにこそ羽生くんが一番輝ける、と私は思っている。

 それでもやはり「ショートもフリーも再演」ということに対する戸惑いはまだあったりするし、賛否両論あって当然だと思う。ただ、それはそれとして、先日「いい演技とは、つまるところ、音楽とスケーターとの愛の交歓である」とバラ1がらみの過去記事で書いた私としては「再演だろうと、それが何度目だろうと、一回一回の演技を純粋に見て、羽生くんと音楽との愛の結晶としてすばらしいものであればそれはそれでいいのではないか」という変な悟りのような境地に入りつつもある。

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 さっき気づいたのだが、6月29日に書いた記事の最後の方で、私は羽生くんがSEIMEIを演じている夢を見た、と書いている。予知夢だったのか。


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08.09
Wed
 ちゃーらーららー らららー らららー という陰陽師のテーマに乗って「金が欲しい金が!金くれ!」という羽生くんの声がラップのように私の脳内で響いている。
 まあ驚いたと云えば驚いた。ショートプログラムが三度目のバラード第一番だからフリーはさすがに新しいものなんじゃないかと思っていたから。15-16シーズン直後こそ私は「羽生結弦選手「SEIMEI」讃」という記事に「このプログラムがあまりに好きすぎて、一季だけで終わってしまうのがさびしくて仕方がない。たとえば、ヴァージョンアップ版を五輪シーズンに再登場させてくれたりしないだろうか。そんなことを夢見てしまうくらい、このプログラムは「ザ・羽生結弦」だと思うのだ」なんてことを書いたが、それはショートが違うプログラムという前提だった。ショートとフリー、両方の再演は普通ないだろうと。ましてやショートの方は三度目だし。でもそういう「普通の考え方」を超えてゆく人だからなあとうっすら思いもしたが……。
 正直、ショートかフリーどちらかは新しいものを見たかったという思いはある。新しいプログラムが発表されて、その曲を聴いてみたり、曲の背景など調べてみたり、場合によってはCDを買ってみたり原作があるものだと読んでみたり、そしてどんな振付になるだろうどんな衣装になるだろうとわくわくしたり、そういう時間が私は結構好きなのだが、その時間がショートに続いてフリーでもばっさりとなくなってしまったのは残念である(まあ衣装は変わるかもしれないが)。
 でもそれは、あくまで一ファンとしての個人の事情で、この「SEIMEI」という選択も、それが呈示されてみればまあ理解はできるかな、というところはある。
 純粋に戦略として考えた場合「高難度ジャンプ時代に入っては来てるけれど、なんだかんだ云って4Sと4T二種類の4回転3本で構成したSEIMEIの記録をまだ誰も(羽生くん自身を除く)超えてないじゃん。てことは、SEIMEIのジャンプ構成を上げてノーミスすれば、勝つ確率は果てしなく高くなるよね?二度目だろうが三度目だろうが『再演減点』とかいうものはないんだから、ジャンプの難度を高くして(基礎点)、技の出来栄えを良くして(GOE)、演技構成もばっちりだったら(PCS)、ジャッジは点を出さざるを得ないわけじゃん。何か文句ある?」ということなんだろうな、と。「五輪で金をとりたい」ということが至上命題とすると、このえげつなさというかはしたなさというか、ある意味いっそ痛快ではないか。

 まあ、羽生くんはすごい人なんだけれども、案外と不器用というか、実はどんどん新しいことをこなしてゆくのが得意なタイプというわけでもないかもしれない、と思った。本人もファンタジーオンアイス神戸のパンフレットで「いろんなものをつかんで離してというのがダメで、コレと決めたら突き進む方が」みたいな話をしてたし。音楽に対するセンスやこだわりがありすぎるからこそ、新しいプログラムに「なじむ」のには時間がかかる面というのはあるような気がする。だから、勝つためにジャンプ構成を上げることは避けられないとすると、プログラムはもともとあったものをアレンジする方がやりやすいには違いない。ショート、フリーともに新しくした昨季は、完成度という点では世界選手権のフリー以外はわりあい苦戦したし。まあ羽生くんの持っている実力のベースラインが高いからこそかなりな成績を保ててはいるけれど、羽生くんが望むところの本当の羽生結弦クオリティを実現するには、新プログラムをやるのは賭の要素が大きすぎる、と見てもまあ不思議はないかな、と。今シーズンはジャンプ構成を上げてそれを安定させることに注力することを選んだのだろう。

 で、私も上記のようにSEIMEIは「ザ・羽生結弦」なプログラムだと思っているし、羽生くん自身も「自分らしく演じられるプログラム」と云っているし、まあ「ハマりプロ」なことは間違いないわけで。ショートとの対比の点でも、フリーはやっぱりある程度キャラクター性なりストーリー性なりがあるものが望ましいかも、という観点で考えた場合、SEIMEIを超えるようなもの、というのは確かにちょっと見つけるのが難しいかもしれない。いや抽象派の私個人としては、なんならHope & Legacy以上に抽象的な曲でやってもらっても嬉しいくらいだが、さすがに五輪シーズンにそれは苦しいと思うので。
 萬斎さんから表現面での薫陶を受けて意識が変化したという点でも、羽生くんにとって思い入れの深いプログラムでもあるだろうし。
 あと、たとえばHope & Legacyと比べると、羽生くんの戦闘モードが若干はみ出ても、最低限の優雅ささえ保っていれば(中間のスローパート以外は)表現的にもまあさほど不自然ではないという利点もある。

 ジャンプ構成を上げてくるということで、4Lo・4S・3F/4S-3T・4T-1Lo-3T・4T・3A-2T・3Lz(リカバリで3Aの可能性)らしい。3Aが一本になったのはさびしいが、しかしリカバリ要員として3Aをとっておけるというのもちょっとなかなか凄い話ではある。4T-1Lo-3Tが入るというのは嬉しいが、後半二本の4T、リスフランにはくれぐれも注意してほしい。
 表現面の成熟ももちろん期待したい。「二日目のカレーはうまい」みたいに「二度目のSEIMEIはうまい」みたいなことになってくれるといいなと思う。
 技術面での進化と表現面での深化、この二つを達成した究極のSEIMEIを見せて欲しい。それができると信じているからこその、批判覚悟の選択であるはずだ。
 強みは「全部です」と云いきったという。その強気がプログラムを磨き上げるエネルギーにきっとなってくれるだろう。


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08.07
Mon
 人がたとえば音楽のライヴに行ったり、演劇などの舞台を観に行ったりするのは、やっぱりその時その場でないと味わえない「一回性」がそこにあるからだろう。同じアーティストの同じツアーのライヴに何回も参戦したり、同じ舞台を何回も観に行ったりする人がいるのも、やはり日が違えば何かが違う、一度一度ごとにかけがえのない一回性があるからなんだろう。私は財力体力その他の事情で、だいたいどんなものも一度しか行かないことが多いが、何度も行く人の気持ちもわかるし、うらやましいなあと思う。
 フィギュアスケートの演技というのも、同じスケーターが同じプログラムを演じるとしても、判で押したように毎回まったく同じ演技をするスケーターはいないわけで、そういう意味では一回性が味わえるものである(特に現地で観る場合は、カメラを通した視点ではなく、その時その場の自分だけの視点で観られるという意味で一回性はより強烈であろう)。
 そして数多のフィギュアスケーターの中でも、一回ごとに演技が違う、一回性が際立つのが羽生くんではないか、と思ったのだった。同じプログラムを演じていても、感じられるテイストがその都度異なっていたりする。試合の展開次第では、ジャンプ構成さえ大胆に変わってしまう。「その時その場でしか観られない演技」感がひときわ強いと感じられる。まあそれは私がファンだからという面もあるだろうけれど、でもそれだけではない、羽生くんの資質の中にその一回性の強さが含まれている気がする。「今日はいったいどんな演技になるだろう」というはらはら感ないしはわくわく感、どこへ連れて行かれるかわからない、そんな感覚が羽生結弦というスケーターに多くの人が惹かれてやまない大きな理由の一つであろう。
 それを本人も自覚しているようで、ファンタジーオンアイス神戸公演のパンフレットに掲載されたインタヴューには下記のようなくだりが出てくる。
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例えば歌手だったらライブで歌うとその時々でまったく違うように、僕も1回1回全然違う演技ができるタイプだと思うんです。
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 おそらくそれは羽生くんの繊細さ、敏感さに由来しているのではないかと思う。同じ音楽でも、その日その日で何を感じるかは全く同じではない。また会場が違えば観客の雰囲気も異なる。もちろんその演技に臨む羽生くん自身の心境もその日その日で異なる。そういったすべてに対して羽生くんの演技が敏感に反応し、その都度違った雰囲気になるのだろうと思う。「その時その場だからこそできる演技を大事にしたい」といったようなことがメソッドに含まれていたかと思うし。このあたり、以前「羽生結弦選手に勝手に「至高性」を見てしまう」という記事に書いたことともつながってくると思う。
 もっとも、競技者として考えた場合は、もしかしたら「安定していつもほぼ同じ演技ができる」方が有利なのかもしれない。でも「今日はどういう演技になるだろう」と思わせてくれるというのは、表現者羽生結弦を観る側としてはたまらない魅力である。

 これまで何度か記事の中で触れてきたように、私はアマチュアとして詩歌を書いている。詩歌を書いていて一つ大きなテーマだと思うのは、作品が「わかるかわからないか」ということである。読者にとってわかるかわからないかというのももちろんあるが、作者自身にとっても時に「この作品はどうしてこうなったのかわからない、ただこういうふうにできてしまって、自分でも自分の作品が説明できない」という時があるのである。でも作者が自分でわかってなければならないのかというとそんなことはなく、作品としての価値はそれとは別問題である。
 作家の高橋源一郎さんが編纂した『読んじゃいなよ!』(岩波新書)の中に、高橋さんと詩人の荒川洋治さんが話したことが出てくる。荒川さんいわく「書いた当人が全部分かっているうちは駄目」だそうで、高橋さん自身も小説を書いていて「うまく書けた時は、たいてい自分でもよく分からないで書いている時」だそうである。私もアマチュアながらに、その感覚は何となくわかる。書いていて、自分でもなぜ思いついたかわからないような展開ができたり、自分の発想について自分でもよくわからなかったりするときの方が多分書いている「ノリ」としてはいいときなのである。
 そういうふうに、書いていてどこへ連れて行かれるかわからないような、作者さえそう感じている作品の方が読者を引き込む力はあったりするかもしれない。そういえば、故ミヒャエル・エンデ氏も『はてしない物語』を書く前は「この構想だとあまり長い話にはならない」と思っていたが、書き始めると物語がどんどん展開してなかなか終わらなくなったというようなエピソードを記していたかと思う。
 それから、これは『悪人正機』(新潮文庫)の中で吉本隆明さんが語っていることの中で知ったのだが、太宰治が志賀直哉と論争したときに、志賀直哉に対して「お前の作品は詰め将棋だから必ず詰む、でも俺の小説は一行目からおののきで、どうなるか自分でも分からない」といったことを云ったらしい。私は志賀直哉も太宰治もそれほど読んでいないので、この言葉が的を射ているかどうかはよくわからないのだが「自分でも分からない」がやっぱりあるのだな、という実例としては面白いと思う。
 作者の筆次第でどうにでも進んでゆくところのある文学と、音楽が決まっていて予定構成のあるフィギュアスケートとを全く同列に並べて考えるわけにはいかないだろう。けれど、羽生くんは、フィギュアスケートという枠内で可能な限りの「最初からおののきで、どうなるかわからない」を実現しているのではないかと感じている。

 前にもちょっと書いたけれど、もしフィギュアスケートで即興演技というものが可能であるならば、羽生くんにぜひやってみて欲しいなあとも思っている。全くの即興でなくても、音楽を聞いて、一時間以内くらいで、ささっと練り上げる感じとか。羽生くんくらいイメージ力が豊富だとできそうな気がするのだが。

 さてこれから今シーズン、どんな「一回性」が際立つ演技を見せてくれるだろうか。楽しみだ。

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 いまだに昨シーズンの録画整理が終わってなかったりして、先日世界選手権のフリーのところにようやく辿り着いたのだが、で、もちろん演技は最高だったのだが、優勝インタヴューを受けているときや表彰式のときの、喜びで上気したのだろうと思われる頬のほんのりピンクがなんとも云えず美しいと改めて感心したのだった。

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 羽生くんと24時間テレビでコラボするのは郷ひろみさんとのこと。
 羽生くんとかつて郷さんがコラボしたファンタジーオンアイス2014、私は試しに一口だけ応募したP&Gのチケットが当たったので生で観ている。曲目は「言えないよ」で、羽生くんのプログラムでは唯一のカメレンゴさん振付。今度のコラボもこの曲の再演だろうか。当時より成熟した羽生くんが今演じるとどうなるか観てみたい。
 しかし郷ひろみさんもいろいろな曲があるが、ある意味一番羽生くんに演じて欲しいと思うのは「処女と少女と娼婦に淑女」というフレーズが出てくる「How manyいい顔」である。いやほんとに羽生くんのいい顔はいったいいくつあるのやら。


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