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03.31
Fri
 昨日の世界選手権ショートプログラム、羽生くんよもやの五位発進。ううむ、4Sで膝ついてコンボが認められなかったのは痛かった。それは頑張った上でのミスだけど、制限時間内にスタートしなくてディダクション-1を喰らったと知ったときには思わず心中で「ばかたれ!」と云ってしまった。ファンだけど。ああもったいない。
 しかし4ループはすごく綺麗に決まったし、ミスのあったコンボ以外はGOEが2と3しかないという素晴らしい出来だったし、観てても観客との「コネクト」もよかったんじゃないかなあと感じた。両手をお耳に当てるちょっとかわいい煽りもあったし。それにしても3A後の蹴り上げ、あのタイミングでよくもあんなに高く足が上がるものだ。
 それにしても、コンボとしては認められなかったものの、4Sで膝をついた直後に両手上げ2Tを入れてくるのがさすがのえげつなさ(褒め言葉。念のため)だ。転んでもただでは起きない。少しでも点を取れる可能性があるならばやれるだけのことはやる。こないだの四大陸の鬼リカバリにしてもそうだが、なんだか「執念加点」とかいうのをあげて欲しくなる。

 しかし多分「羽生vsチェン」という構図が注目を集めていた中で、その二人がミスして五位六位と出遅れるとは。ひょっとしたら、二人とも気負いが強すぎたのかもしれない。それにしても特に上位四人はそれぞれすばらしかった。いずれもパーソナルベスト更新だし。あと、やっぱりブラウンくんの演技はいい。コフトゥンくんも六練でトラブったあとよく頑張った。今季限りで引退かと云われているジーくんもいい。コリヤダくんもキレがあってよかった。田中くんフリーでの奮起に期待。

 さてこのショートプログラムの結果が非常に悔しいに違いない羽生くんのフリーに向けての展開はいかに。当然、羽生くんは逆転優勝を狙うに決まっている。そして「上位のミス待ち」などと甘いことを考えている場合ではもちろんないだろう。で、この記事によると、羽生くんと現在トップのフェルナンデスくんとの点差は10.66だが、フリーの予定演技構成での基礎点では羽生くんがフェルナンデスくんをちょうど10点上回っているとのこと。ということは、羽生くんがノーミスで、フェルナンデスくんよりちょっと多めにGOEやPCSを積めば、フェルナンデスくんのミスを待たずとも理論的には逆転優勝が可能である。もっとも、ジャンプの高い基礎点を持っている若手が、すばらしいノーミスの演技をして、これまで以上にGOEやPCSを伸ばしてくる可能性もあるが、羽生くんがフェルナンデスくんを逆転できるほどの出来だったら、羽生くん優勝の確率は高いだろう。ということくらいもちろん本人はきっと計算していると思うので、あとは実際にそれをどれだけ遂行して見せてくれるか、楽しみに待つだけだ。「崖っぷち大好き」の羽生くんとしては、今の状況はなかなか質のいい(?)崖っぷちではないだろうか。
 祈!会心のHope & Legacy!

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 女子についてもちょっと。日本女子三人はもうフリーでは実力をできるだけ発揮することだけを考えてがんばってくれればと思う。それにしてもメドベージェワちゃんの安定感。あとカナダ勢が躍進したなと。デールマンさん連続ジャンプが3T3TでもGOEとPCSをそれなりにとれれば戦えるという、クリケットの戦略を体現している。ポゴリラヤちゃんの妖艶さも好き。ソツコワちゃんの端正な感じも好き。というか、上位はみんなよかったなあ。久しぶりのコストナー姉さんも素敵だった。コストナー姉さんが使っていたような曲で羽生くんに演技してみて欲しいとも思った。
 女子フリーは申し訳ないが睡眠応援。寝不足や睡眠リズムの乱れに弱い私。今体調を崩すとまずい状況なので。みんながんばれ。

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 皇帝プルシェンコ様引退発表。「今度こそマジで?」と疑ってしまうところもあるのだが、それはそれとして本当にお疲れさまでした。たくさんの素晴らしい演技をありがとうございました。


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03.27
Mon
 別にヅカファンなわけではない。一年前くらいの記事にも同じようなことを書いてるのだが、この時期は気候といい年度末年度始であることといい、何かと不安定になりがちな時期なので苦手なのだが、菫の花が好きなので少し救われている。いろいろな菫を求めて野山を歩き回るほどの菫マニアではないのだが、うちの近辺を散歩するだけで数種類は見られる。早いものは冬のうちから咲き出すし、遅いものはゴールデンウィークあたりも咲いていたりするが、やはり一番の盛りは三月から四月にかけて、そう、毎年世界選手権が行われる頃である。菫の花咲く頃と云えば、世界選手権開催の時期である。
 菫も大きさや色合いなどいろいろあって、この薄紫のなんかはLet’s go crazyの衣装の色に似ているなあと(推定コスミレ)。
IMG_4197.jpg
 なんで菫が好きかというと、やはりなんともいえない独特の可憐さがあるから、ということになる。野の花だけれど、不思議な気品も兼ね備えている。
 とはいえ、野の花だから、見かけは可憐でも結構たくましい。こんなところに咲いていたりもする(推定スミレ)。
IMG_4185.jpg
 こんな敷石のわずかな隙間からでも花を咲かせる(推定ヒメスミレ)。
IMG_4203.jpg
 見た目は可憐なのに結構したたかで逆境と思える場所でも花を咲かせる。まるで誰かさんじゃないか。

 さてその誰かさんもいつのまにやら日本にいてしれっと成田から出国して、そして元気そうにヘルシンキ入りしたようで何よりである。その少し前にファン界に流れた「舟和の袋」のこともちょっと気になる。私も舟和の芋ようかん好きなので。

 いよいよ世界選手権が近づいてきた。羽生くんが望む演技ができますように。それができれば本人も自負しているように、誰も敵わないはずなのだから。
 他の皆さんも実力が発揮できますように。私が「羽生くんのことをもちろん突出して一番応援しているけれど、他のみんなも応援」というスタンスをとっているのは、単純に「みんなにがんばってほしい」というのももちろんあるけれど、特に男子シングルの場合、羽生くんが「みんなが実力を発揮した上で、その中で自分が勝ちたい」と願っているからというのもあるのだ。


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03.23
Thu
 さてan・anであるが、前回のときと比べると羽生くん比率は下がっているし、前回のように「普段見慣れない感じの羽生くんが!」というインパクトもなかったけれど、今回は羽生くん一人の特集というわけでもないしまあこんなもんかな、と。羽生くんについての野口美惠さんの文章も「フェルナンデスと無言の愛を交わす」以外は既視感のある内容だったけれど、そもそもan・an自体がガチの羽生ファンのみを相手にしているわけではないのでこれでいいんだろうと思う。ガチの羽生ファンやガチのフィギュアスケートファン以外が読むものという観点で考えると、佐々木さん小林さんの対談も「フィギュアのことあんまりよく知らない人がそこを知ってくれると嬉しい」というポイントを結構押さえてくれていてよかったと思う。四回転はかつてはパワージャンパーのものだったけれど今はパワーレスなジャンプの時代だとか、チェンくんはジャンプの軸を作るのが早いとか、チャン氏はスケーティングが超絶うまいとか、宇野くんの音の取り方がいいとか、フェルナンデスくんの踊りはわかりやすいうまさとか。そして羽生くんについても、ジャンプのGOEが高いこと、4ループは難しいこと、特に3アクセルの質の高さ、などしっかり押さえてくれてて嬉しかった。私は「見せるスケーター」としての佐々木彰生さんが結構好きだったので(生で二度観たことがある)、このan・anで佐々木さんが今度「氷艶」に出演するのだということも知ることができて嬉しい。観には行けないけれど。
 ユーリに興味のない私としては、ユーリの分のページやポスターも羽生くんに回してくれるとよかったのになあという気持ちは正直ある。いや、ユーリも観れば多分面白いんだろうとは思うんだけど、あんまりキャパの大きくない私は、羽生くんのことだけでおなかいっぱいで、二次元のキャラやスケートを追う余裕までは今のところないのだよ。

 an・anというと男性ヌードという印象があったりして、一部には羽生くんのヌード待望論があったりなかったりするらしいが、私個人としては前にも「羽生結弦くんの日本的な透明感と陰影」という記事で書いたように羽生くんの裸体をさらしてほしいとはあまり思ってなくて。というか、いかにもエロスを意図した状況よりも、本人も場面もエロスを意図してない状況で感じられるエロスの方がエロくないだろうか。でももしan・anが羽生くんを脱がしたら買わないかというと買うけれど。
 とりあえず練習着好きとしては練習着の写真がページ数のわりには多くてちょっと嬉しかったり。練習着って文字通り練習のための衣服だから別に全然エロスは意図してないし、それを着ている練習という場も(プログラムの表現としてエロスを出すの以外は)エロスを意図してないけれど、それなのにエロいというのがいいのだ。
 で、私が今回のan・anであらためて発見したことは何かというと「練習着の皺の存在意義」であった。
 これは表紙の羽生くんのウェストあたりの皺のアップ。これになんかアートを感じたぞ私は。
IMG_4157.jpg
 私の好きな佐野元春氏が、好きな女優として吉田日出子さんの名前を挙げてこんな発言をしている(私はソースを覚えていなかったが今ネットで調べたら1982年with誌でらしい)。
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『上海バンスキング』を観て、彼女(吉田日出子)には圧倒されてしまった。着ているドレスの皺までが彼女の演技になってる。
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 羽生くんの練習着の皺も、時に意図せずにこの領域に達しているのではないかという気がしてきたのであった。そこで皺の存在意義について考察してみる気になったのだった。
 練習着は伸縮性があるから他の衣服に比べると身体の線をくっきり見せてくれるけれど、でも皺がよるということはやはりそれは身体の線そのままではない、ということなのである。羽生くんの練習着は黒もしくはそれに近い色であることで身体の線が際立つようでいて、でも皺があることで「でもそれは本当の輪郭ではない」という微妙な距離感が生まれる。この距離感がかえって、練習着というもののエロスを醸し出すことになっていると思う。丸見えより見えそうで見えない方がエロいのと同じような原理で。
 そういう距離感を生み出す皺は、とてもはかない存在でもある。練習着の生地は伸縮性があるので、羽生くんが動くにつれて皺の位置、数、形、大きさは変化する。羽生くんが動き続けているかぎり、皺も変化しつづける。そのうつろうさまは、けれど云ってみればその練習着の中に羽生くんの動く肉体があるのだという実感にもつながる。黒もしくはそれに近い色ということで、ある程度無機質化される肉体の印象が、皺とその変動によって生気を帯びる。それもまた練習着のエロスを醸し出す一因となっている。
 つまり練習着の皺とは、一方では羽生くんの輪郭との微妙な距離感を生み出し、一方では羽生くんの肉体の躍動感を伝えるという、相反するとも思える、けれどどちらも練習着のエロスを際立たせる働きを持っている尊い存在なのである。
 というか皺ひとつで私にこんな考察をさせる羽生結弦って一体……。まあ春だし世界選手権も近いしで私の精神状態がちょっとどうかなっているんだろうと思うが。


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03.21
Tue
 というわけで地上波族なので、今ごろ「アスリートの魂」について。といっても、話の内容的には、ある程度情報を追っているファンだったら知っていることばっかりだったし、私もこのブログですでに取り上げている話題とかぶっていたりするからそのあたりの感想は省く。ただ、そこまでファンじゃない人もたくさん観ている番組だろうし、そういう人に向けては内容的にちょうどいい番組だったのではないだろうか、とエラそうに思う。
 で、話としては知ってる内容ばっかりだったからつまらなかったかというと全然そんなことはなくて「編集しなくても羽生くん関連の映像ばかり45分」という意味でたいへんおいしくいただいた。冒頭の恋ダンスとか「脱いでるときにパシャパシャされると恥ずかしい」とか指くわえてるところ等、それがなくても番組の内容的には成立するだろう!と思うような映像もわざわざ差し挟んでいただいてたいへんありがたかった。しかしなんといっても練習着姿好きとしては、練習着の映像をたっぷり盛り込んでくれてたいへんたいへん嬉しかった。
 練習着姿はいい。羽生くんの練習着は黒かそれに近い色なので、身体の線の美しさがくっきりわかる。いつから羽生くんの練習着姿はいいと思うようになったか忘れたが、福岡でグランプリファイナルがあったとき、ショートプログラムの日の公式練習のチケットを入手していたので、練習着の羽生くん観放題だ、と喜んでいた記憶ははっきりとある。ちなみにその公式練習直後に某SNSで書いた日記の抜粋はこんな感じ。
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いやあ、いいですね公式練習。
30分程度、羽生くん観放題。
それって試合やショーではありえん状況だからね。
しかも、ジャパンジャージ→長袖練習着→半袖練習着と
だんだん脱いでゆく羽生くん。
ってそういう問題なのか。
いや、でもごめんなさい。
私ほとんど羽生くんをガン観してました。
前から五列目くらい(公式練習は自由席)わりと近くで観られたんだけど
あらためて体型が、すごいきれいなのー。
練習着って体型がくっきりわかるからね。
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 そんな私にとって、今回の「アスリートの魂」は結構練習着映像てんこ盛りパラダイスであった。それにしてもこれまでの人生で、これほど男子の身体の線に着目したことがあったであろうか。いやない。フィギュアスケート観てても、むしろ身体の線がはっきり出やすいし気になるのは女子の方だし、アイスダンスの女子の人はみんな脚が綺麗だなあとか思ったりはしたのだが、男子は漠然とあの選手スタイルいいなあとかそういうことは思っても、身体の線の美しさどうこうまでとりたてて気にしたことはなかったと思う。でも羽生くんの、特に練習着の時の身体の線には目が吸い付けられる。見とれてしまう。しなやかさ、シャープさ、全体のバランスの良さ。それだけで快感である。女性的な優美さもありながら、でもやはり男性の輪郭。その両性具有性のエロス。そして、練習着という装飾性をそぎ落としたものを纏っているところから発するストイックなエロス。お花やフリルにまみれた羽生くんを見て「こういうの着られるの羽生くんだけだよね」という奇跡を味わうのも好きだが、シンプルな練習着でただただ身体の線を堪能するという至福も何にもかえがたい。
 私がこのブログで何度か「感情価のない難しい曲、もしくは無音で羽生くんに演技してもらいたい」的なことを云っているのも、この「練習着好き」とつながっている気がする。もしそういう演技をしてもらえるなら、その場合の衣装はもうほとんど練習着というような黒のシンプルなものにして欲しいのだ。余計なものは一切そぎ落として、ただ羽生結弦という研ぎ澄まされた肉体の輪郭、そしてその動きが生み出す美を、とことんまでシンプルに純粋に味わってみたいのだ。

 ナレーションが山本耕史くんなのもちょっと嬉しいポイントだった。NHK大河「新選組!」以来、わりとお気に入りなのである。舞台も二度ほど観に行ったことがある。彼も好きなことにはかなり凝り性というかこだわりが強いというかそういうところがあり(そういえば趣味の一つはけん玉)、また色白美肌でスタイルがよい、というところで羽生くんと共通点があるな、と思っている。そういや羽生くん以前好みのタイプとして堀北真希ちゃんを挙げてたっけ。

 さて練習着表紙のan・anももうすぐ。わくわく。

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 ファンタジーオンアイス神戸と新潟のゲストアーティストの一人が杏里さんと知って「CAT’S EYE」で羽生くんに演じて欲しいという安易な発想が浮かんだ。それこそシンプルな黒のぴったりしたような、ちょっと光沢のあるような衣装で、来生三姉妹にも負けないデリシャスバディを見せつけてくれたらいいのに。WE GET YOU MYSTERIOUS BOY。ところで羽生くんは来生三姉妹なら誰が好みだろう。

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 それにしても宮原知子ちゃんの世界選手権欠場は残念である。本人が一番残念に決まっているが、身体は大事なのでくれぐれもしっかり治してほしい。そして五輪枠は、誰がいくつ取ってきたものであろうと、来季遠慮なくもぎ取りにいってもらいたい。
 本郷理華ちゃんも、今季は予定外の試合に出る展開が続いてたいへんだろうが、しっかり実力を発揮できますように。


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03.19
Sun
 一つ前の「抽象型はつらいよ、されど」の記事でジャッジについてちょっと触れたついでに、漠然としかわかってなかったジャッジについてちょっとだけ調べた。それであらためてジャッジってたいへんだなと思ってこの記事を書いている。
 ジャッジになるには当然それなりの訓練とか勉強とかがいるし、ジャッジにもレベルがあって主要国際試合を担当できるようになるまでにはそれなりの年数がかかるし、しかもジャッジとしての活動はほぼボランティア的なもので、それだけで食べていくことはできないらしい。ジャッジの資格を維持するためには現場に出続けないといけないし研修なども受け続けないといけない。
 そもそも、リンクサイドで、正しい判断をするべく集中力を保って選手の演技を見る、ということだけでもかなりたいへんだと思う。それにもちろん責任が伴う立場だ。客観的で公正な判断を求められているという立場であるという責任はもちろんだが、間接的に、試合の結果というのは選手にさまざまな影響をもたらす。ある選手が金メダルか銀メダルかではその後いろいろなことが大きく違うであろう。台乗りするかしないかでも違うであろう。入賞するかしないかでも違うであろう。選手によってはその試合に強化選手になれるかどうかがかかっていたり、あるいは選手を継続するかどうか自体がかかっている場合もあるであろう。そういう、人の人生に影響を与えるような判断に関わる立場だと思ったら私なんかそれだけでも胃が痛い。

 私は基本的に、ジャッジの出した判定には文句を云わないことにしている。理由は単純で、私はジャッジレベルで演技を評価する能力はないからだ。自分の認識では「ライトなフィギュアスケートファンとスケオタの中間ぐらいを漂っている」自分が、専門家であるジャッジの下したあれこれにどうこう云えるほどの技量はあるわけはない。今後さらに詳しくなってゆくとしても、ジャッジレベルの技量を身につけるほどの日が来るとは正直思えない。専門家であるっていうことは結構たいへんなことだ。私も以前ある分野の専門家をめざしていた時期がある。健康上の問題で結局それは断念したけれど、専門家というものがどういうものかということが肌身でわかったというのはよかったと思っている。
 世のいろんな専門家を名乗る人が必ずそれにふさわしい実力を持っているとは限らない、とか、専門家でも不正をすることがある、という問題はないわけではない。けれど、大まかに「専門家なめたらいかんぜよ」という意識は持っておいていいような気がしている。
 といっても、素人は何も云うな、というわけでもない。素人は素人なりに感じたことを云ってもいいと思う(素人が何も云えないのだったら私もこのブログを即座に閉じなくてはなるまい。フィギュアスケートや羽生くんがどんなに好きでも、現場の本当のことは何もわからないのだから)。世の中は云ってみれば素人でできているのだから。まず、誰でも、自分が仕事や趣味などで真剣に打ち込んでいること以外のことについて素人であろう。いわゆる「専門家」を名乗れるレベルの人たちだって、自分の専門以外のことは素人である。素人があることについてどういう感覚を持っているかということがその分野の専門家をインスパイアしたり示唆を与えたりする場合もあったりするしで、素人が考えたり感じたりしたことを素人なりに述べるのは別にかまわないと思うのだ。私も素人として「こないだの四大陸選手権で羽生くんのフリーの最後の3AにGOE0をつけたジャッジの判断はよくわかりません」くらいのことは思うし、云えなくもない。でもやっぱりフィギュアスケートのジャッジという専門家にはリスペクトを持っていたいと思うのである。専門家だからこそわかることというのはやっぱりあると思うので(時に、フィギュアスケートの採点基準は素人から見てももっとわかりやすいものにすべきというような言説もあるけれど、そんなふうになったらかえって競技の魅力は落ちると思う。というか、素人としてはその判定はよくわからないけどなぜだろう、と思ってプロトコルや採点基準といったものに興味を持っていってだんだん詳しくなる、以前はわからなかった判定がわかるようになったりする、フィギュアスケートの奥深さに気づいてゆく、という過程が面白いと私は思っている)。
 いや本当にジャッジってたいへんだと思う。なるのも大変、資格を維持するのも大変、仕事そのものも食えない上に大変、そしてちゃんとやって当たり前、素人目から見て疑問のある判定でもしようものなら下手すりゃぼこぼこに叩かれる、選手には応援やプレゼントが届くけれど「がんばっているジャッジさんに励ましのお便りを」なんてことはない。私が仮にジャッジをできるだけの経験や技量があったとしても正直やりたくない。
 ジャッジを支えているのは何だろう。フィギュアスケートへの愛、自分がよい演技をきちんとよいと評価することがフィギュアスケートをよりよくすることにつながる、そういう信念とかだろうか、と思っている。

 ジャッジに限らず、専門家、とか、現場の人、とかに対するリスペクトは忘れたくないなと思っている。私は性格上、手に入る情報でこうやっていろいろなことを勝手に考察したり分析したりして書いてしまうけれど、スケートの現場のことは正直分かりません、だからあくまで個人の推測にすぎません間違ってたらごめんなさい、という気持ちをちゃんと持っておきたいとあらためて自戒するのだった。

 今回、ネットでちょっと調べた中で面白いなと思ったのは「フィギュアスケート 審判の目」という昨秋あったらしい放送大学での吉岡伸彦氏の講演についての感想のあれこれだった。ずっと前『プロ野球審判の眼』(島秀之助著、岩波新書)という本を読んだことがあるが、そういう感じで、誰かジャッジの方が現場の実感も交えてフィギュアスケート審判について本を書いてくれないだろうか。今だったらある程度の数の読者が見込めると思うのだが。少なくとも私は読みたいと思っている。

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 それにしてもジュニア女子もえらいことになってきている。私はテレビで最終グループだけ観たのだが、真凛ちゃんがあれだけの演技をしても勝てないザギトワちゃん。ジャンプ後半固め打ち、しかも3Lz3Loが跳べるとは。平昌五輪にも間に合う年齢ということで、本当にロシア女子は誰が出てくるかまったくわからない状況だなあ、と。まあ日本女子もかなり混沌としているけれど。


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03.17
Fri
 「感情移入型と抽象型」の記事に「Hope&Legacyは欧米の観客やジャッジに受けが悪いという噂もある、抽象型の表現は『わかりにくい』とされがち」という懸念を述べられた拍手コメントをいただいた。それは私も気になるところではあるのでこの記事を書くことにした。実のところ、私も表現活動をしてきて、しかもフィギュアスケートより一般的にはずっと敬遠されがちであろう詩歌というジャンルでコテコテの抽象型としてやってきたので、感情移入と抽象(もしくは外向と内向)と、それぞれの受け手への受け入れられ方の違いという点はずっと考えてきたし、もうこの点について語り出せば止まらないくらいいろいろ熱く語ってしまいそうである。が、なるべく焦点を絞って書いてみたいと思う。
 本題に入る前にまず一応断っておくが、外向、内向といってもきれいにすっきり二分されるものではもちろんない。ものすごく外向~やや外向~やや内向~ものすごく内向というようにグラデーションしているものである。あと、外向的な人でも、時と場合によっては内向的になったり、逆に内向的な人が時と場合によって外向的になったりもする。でも以下の話では便宜上大まかに外向、内向に分けて語る。ちなみに私自身はどうやら内向の中でも内向性が強い部類である。世の中のほとんどの人は自分よりは外向的に見える。
 さて、Hope&Legacyだが、前の記事で私が羽生くんが内向の抽象型タイプだと推測したことが当たっていると仮定して考えると、その羽生くんの歴代のプログラムの中でも抽象性が一番高いくらいのプログラムだと考えて間違いないと思う。感情移入しやすそうなストーリーだのキャラクターだの明確なメッセージ性だのはないし、そもそも羽生くんのつけたタイトルHope&Legacyがとても抽象的だし。
 前の記事にも書いたように、概ね一般受けしやすいのはやはり外向の感情移入型表現であろうという気がする。だって世の中はほぼ外向型が動かしてるんだもの。外にエネルギーの向かう外向型は、だいたいにおいて社交的で行動的、現実への適応がいいから、内向型の人が自分の中でいろいろなことをうだうだ考えているうちに、どんどんものごとを動かせる。内向型の人が自分の価値観に頑固にこだわっているあいだに、外向型の人は「みんな」が好んだり評価したりするような価値をナチュラルに追求でき、提供できる。乱暴なくくり方をすればだいたい「リア充」が外向で「オタク」が内向である。超内向人間から見ると外向型はなんて楽で楽しそうに世の中を渡ってゆくんだろう、と思える(ひがみも入っている)。そんな外向のもたらす表現は、なんてったって「わかりやすい」のだ。だって価値観の軸が「みんな」にあるのだもの。そこへゆくと内向人間は「みんなが受け入れてくれなくても自分のこだわりは捨てられない」とかになっちゃって、実際受け入れられないものを生み出しちゃったりする。一部の波長が合う人にだけ好まれて、それ以外の人に「わからない」と云われちゃって終わり、ということがありがち。
 でも、内向の抽象型人間から見ると「わからない」で何かを味わうことをやめちゃうってすごくもったいないなあ、と感じるのである。「わかる」ということは確かに快感だし、それ自体大きい価値であることには違いないのだけれど、わからないものにもわからないものの魅力がある、というか、わかるかわからないかで何か(特に、芸術や表現に関して)を切り分けてしまう必要はないんじゃないかと思っている。意味として、あるいは感情としてわからないものでも、そのもののもたらす「印象」が好きとか嫌いとか快とか不快とか、そういうふうに捉えることは可能だし、むしろ意味や感情ではっきりと切り分けられない分、その作品の背後にふくらみ、奥行きを感じることができたりもするのである。私は「わかるかわからないかと云われればわからないけれど、でもこの作品のもたらす印象やそこから広がるイメージは魅力的だ」と感じて何らかの作品を好きになることはわりとよくある。
 とはいえ、外向の価値観がどうしても支配的になっている世の中では、やはり観客受けとしては感情移入型が有利というのはあるだろうなあと思う。そして日本はそれでもまだしも内向的な価値観に理解がある社会だとされているようだけれど、欧米、特にアメリカでは外向的価値観の重んじられ方が日本以上というような話もあるみたいなので、そうなるとHope&Legacyの観客受けが欧米で比較的悪い、というのはあり得ることなのかもしれない。もちろん、欧米でも個々人単位では、抽象的な表現が好き、という人もそれなりにいるのだと思うけれど。
 ジャッジに関してはどうなのか、これはちょっとよくわからない。ジャッジは偏りのない目で審判をすることが求められている立場だと思うので、少なくとも理想論的に云えば「自身の文化圏や性格、ふだんの音楽の好みがどうあれ、選手の用いている音楽についてはその特徴を正確に捉え、その音楽にスケートが調和しているかどうかを的確に判断する」ことができないといけないのではないかと個人的には思う。
 とはいえ、ジャッジも人間だから、完全に自分の好みなどに影響されずに判断を下すのはなかなか難しいだろうなあ、と思う。たとえば、演歌ファンの方には申し訳ないが、私は演歌がどうにも苦手である。で、もし私がジャッジだったとして、誰かが演歌で演技をしたら……影響されて渋めの点をつけてしまったりしないか、逆に影響されることを気にする余り採点が甘くならないか、ちょっと自信がない。まあそういうことの影響を最小限にするために、採点結果は最高点と最低点を切り捨てて平均、という形をとっているのだろうけれど。
 でもなんだかんだ云っても、羽生くんの演技はちゃんと評価されるんじゃないかなあと思っている。Hope&Legacyは確かにフィギュアスケートの競技プログラムとしてはかなり抽象的な方だと思うけれど、それはそれとして曲にある程度の叙情性は感じるし、それに羽生くんのあらわしたいものが、曲の叙情性とちゃんとマッチしていると思うのだ。それになんといっても、羽生くんのスケートと曲のシンクロ感だけでも、表現としてわかろうがわかるまいが圧倒的な心地よさがあるのではないか、それは少なくともジャッジには十分評価されてしかるべきものではあるまいか、と思うのである。欧米人でジャッジのこともよく把握しているオーサー、ボーン両氏がついているわけでもあるのだし。
 あとは、観客にしてもジャッジにしても、羽生くんの「コネクト」がどこまで効いてくるか、というのもあると思う。Let’s go crazyだとロックスターとしてライヴ的にアピールすると云うわかりやすいコネクトができるけれど、そうはいかないHope & Legacyの場合はおそらく「自分なりにこのプログラムの時空間を一生懸命演出するので、皆さんがそれぞれの受け取り方で共有してくれると嬉しいです」という感じでコネクトをはかっているのではないかと想像している。さてHope & Legacyが表現として完成したときに、そのコネクトがどのくらい波及するか……。四大陸選手権みたいにジャンプ合戦にゾクゾクさせられるのもいいけれど、世界選手権ではよりトータルパッケージとして完成されたHope & Legacyが見られるといいなと思っている。それが実現したなら、羽生くんの実力であれば「ストーリーやキャラや明確なメッセージ性はない、はっきりと感情移入できるようなポイントもないけれど、でも表現としてはすばらしい」ということがあり得るということを今までより多くの人に認識させてくれるのではないかと勝手に夢を託している(?)ようなところもある。

 そういう願望の延長線上で、以前も書いたように、羽生くんにはいつかもっと思いっきり「難しい」曲でやってみてほしかったりもする。極端な話、これも前にもちょっと書いたけれどジョン・ケージの「4分33秒」で演技してほしいとさえ思っている。

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 世界ジュニア選手権については、結果をざっとチェックしているだけなのだが、男子シングルの上位のスコアが凄いことになっているようで。来季にシニアに上がってくる選手たちも五輪に向けてあなどれない存在になってきているな、と。羽生くんが火をつけた導火線上で、若手がどんどんスパークし始めた印象。

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 さてそろそろ「アスリートの魂」(地上波)とan・anに対して心の準備をしておこうか。


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03.13
Mon
 先月「負けず嫌いさん」という記事を書いたら、その少し後にマイレピ会員サイトで羽生くんが自らを「負けず嫌いの究極系」と語っている記事が出た。「すべての試合に勝ちたいけれど、自分の負けず嫌いは単に試合の勝ち負けではなく、ミスをしたら自分に負けたことになる、したい演技ができないとダメだなと思う、満足したことはほとんどない」というようなことである。でも失敗が反省につながり、悔しさがバネになって前へ進める、と。
 こないだの記事を書いた後で思ったのだが、結局負けず嫌い(他人より優位に立つことが主眼にあるタイプではなく、自分の実力を発揮できたかどうかの結果としての勝負を重視するタイプの場合)ということは、自分に対する肯定力がすごく強いってことなんだろう。自分がちゃんとやれば勝てる、あるいはちゃんとやれば自分の思う演技ができる、と思えるからこそ負けず嫌いにもなれるわけだ。私は自分に負けず嫌いなところがないと書いたけれど、それは結局、そこまで自分を肯定しきれるところがないということだなあとも思った。スポーツはそもそも運動神経がダメだからダメだけれど、たとえば学校時代でも、苦手科目なんかは特に、がんばっても、もともとその教科が得意な人にはとうていかなわないなあ、とひしひしと感じていた。比較的得意なことでも、科目であれなんであれ「これで勝ちたい、勝てる」もしくは「がんばれば自分の理想どおりにできる」みたいな意識を持てるほどのことってなかった気がする。そこそこのところで「まあこんなもんだな自分」と思ってしまう。なんだかそこまで自分を信頼しきれない、肯定しきれないのだ、私は。
 だから、羽生くんみたいに、少なくともスケートに関してだけでも「自分がちゃんとがんばって、実力を発揮すれば、人に勝てるだけでなく、自分の思い描く演技ができるはず」という強い信念を持って、しかもとても高い次元で挑んでいる姿というのがとても眩しく魅力的に思えるのかもしれない。羽生くんの負けず嫌いの清々しさは、おそらく滅多に見られないレベルの自己肯定力の純度と強度ということに裏打ちされているのだろう。
 その自己肯定力はどこから来るのか、遺伝なのか環境や経験なのかおそらく両方だろうが、正確には知るすべはないだろうけれど知りたい。羽生くんともし話せる機会があるとしたら「自分がなぜそんなにも負けず嫌いなのだと思いますか」というテーマについて小一時間問い詰めたい気もする。いや、真面目に、人が生きてゆくに当たって、適正な自己肯定力を持てるかどうかというのはとても大事なことだと思うのだ。自己肯定力の持ち方、あるいは育み方について羽生先生のご意見、ご見解をぜひうかがいたい。

 余談だが「負けず嫌い度診断」というのを見つけたのでやってみた。それによると私は「意外なところで競ってる!変な負けず嫌い」らしい。他人には理解されにくいこだわりポイントを持っていて、自分だけで決めた、人にはわからない勝負を繰りひろげているらしい。確かに思い当たるふしはある。人との勝負にギラギラすることは基本的にないけれど、マイルールを決めてそれが守れないと負け、みたいにこだわってしまうようなところは多々ある。みたいな。たとえばこのブログでは文字の大きさを変えたり色を変えたりはしないとか、本文に顔文字や(笑)などを使わない、とか(コメント欄では使う)。そのあたりでブログタイトル通り「地味に」することにこだわっているようなところがある。

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 宇野くんが非公認とはいえ300点超えでプランタン杯優勝、おめでとう。ますます男子シングルは群雄割拠の観を呈してきている。さあ世界選手権の展開はいかに。


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03.11
Sat
 東日本大震災から今日で6年である。やはりどうしても人の意識や記憶も風化しつつあるところもあるだろう。私も記念日だからこの記事を書いているわけだが、記念日だからととってつけたように意識するのではなく、いつも忘れずにいたいと思っている。6年経って、復旧復興がかなり進んだところもあるだろうけれど、ということは、今まだ支えを必要としている人や場所こそ本当に大変ということなのだ、とも思う。
 東日本大震災もだが、その後熊本や鳥取でも地震災害はあった。それ以外にも、天災や人災、事件や事故、病気などなど、いろいろなことで助けや支えを必要としている人がいることを思う。日本だけじゃなくて世界中に。けれど、それらすべてに思いを寄せようと思ったら、心がいくつあっても足りないし、すべてに手を差しのべようと思ったら身体がいくつあっても足りない。人間とは不便な生き物だなと思う。
 東日本大震災の後には特に、何もできない無力感とか、被災しなかった場所にいることの罪悪感のようなものがあった。今も、世界のさまざまなあれこれに対する無力感だの罪悪感だのがまったくゼロではない。けれど、今自分が比較的平穏に日常を暮らしていることとか、その中の幸せとかに対して変に自粛するのもやはり違うだろう。そういうことを享受できていることが当たり前ではないということを時に思い起こしながら過ごしてゆきたい。そしてできるだけいろいろなことに思いを寄せ、できる範囲でできることをやってゆければ、と。小さなことしかできないとしても。
 羽生くんが震災を経験して、でもスケートを続けてこれたこと、私が今フィギュアスケートを観ることができる環境にあって、羽生くんを応援できていること、そういう事実に、あらためて感謝したいと思う。


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03.07
Tue
 以前「憑依型と自力型」という記事を書いた。それに関連はあるけれど、ちょっと角度の違う話。
 以前持っていたユング心理学に関する本で(秋山さと子氏の書いた、講談社現代新書のどれかだった。今手元にないのはずっと前に誰かが無断で持っていったままだからだ返してくれ)「外向の芸術は感情移入の芸術、内向の芸術は抽象の芸術」という話を読んだ記憶があるのである。ちなみに一般に外向、内向というと社交的かどうかというイメージになるかと思うが、本来は意味や価値といったものを外の世界に求めるか自分の内に求めるか、精神エネルギーが外向きか内向きか、といった意味合いである。
 この「外向の芸術は感情移入の芸術、内向の芸術は抽象の芸術」ということを思い出したのは『チーム・ブライアン 300点伝説』にある、羽生くんとフェルナンデスくんの違いに関する記述が興味深かったからである。
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 ハビエルはプログラムの登場人物として生き、ユヅルは音楽の一部として生きる。
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 「ハビエルは誰かのキャラクターを演じるのが大好きで、どんな役にでもなりきれる名役者」という記述や「ユヅルは心をこめて滑るタイプの選手です。たんに“素敵な曲”とか“観客受けがいい”ではなく、滑る目的が必要なのです」という記述もある。いろいろな面で対照的であるこの二人、性格的にもおそらくフェルナンデスくんが外向で羽生くんが内向である。そしてつまり、表現者の型としてはおそらくフェルナンデスくんが「感情移入型」羽生くんが「抽象型」なのである。
 感情移入型の人は、表現したい対象に向かって自分を開く、自分を投げかけて対象に感情を移入しその対象になりきる、ということができるのであろう。それに対して抽象型は「その対象が自分の中にどんな印象を引き起こしたか」をあらわす。「憑依型と自力型」の記事でも触れたが、たとえば羽生くんが「オペラ座の怪人」を演じるに当たって「ファントムになりきりたいと思います」という云い方はせず「僕なりのファントムを演じたいと思います」という云い方をした、そのことに羽生くんが抽象型であることがあらわれている気がする。つまり、自分がファントムに感情移入し、なりきるのではなく、ファントムというキャラクターは自分の中でどのように捉えられているか、それを呈示してみせるということだったのだと思う。「滑る目的が必要」というのも「その音楽が自分にとってどういう意味合いがあって、それをどうやってあらわしたいか」ということを自分の中でイメージ化して演じる要素が強いということなのだと思う。やはり「憑依型と自力型」の記事で取り上げた「自分は何かのテーマを伝えるのは下手だと思う。振付の人やコーチなどからも、自分の中に入り過ぎるとよく言われるので」も抽象型であることを示しているかな、と思う(この場合のテーマとは羽生くんががあらわしたいテーマではなく、音楽作品の方があらかじめ持っている何らかのテーマであろう)。
 おそらく、一般的には「表現力が豊か」という印象を与えやすいのは多分感情移入型の方であろう。必然的にストーリー性やキャラクター性の強いプログラムが得意になり「なりきっている感」が「すばらしい表現力だ」という評価をもたらすであろうから。それに対して抽象型は、どうしても表現が表現者の「自分」を経由するので、受けとる人との相性によっては表現としての訴求力が弱くなる可能性もある。とはいえ、音楽から得た自分なりのイメージを自分の中で研ぎ澄まして、それをスケートに高度に結びつけることができれば、いわゆる「音楽と一体化した滑り」となるのだろうと思う。オーサー氏が「SEIMEI」は音楽が助けてくれない、一般論的にいうと難しい曲であることを指摘した上で「ユヅルそのものが音楽になる瞬間を待つしかありません。つまりこういうことです。優れたスケート選手であれば、スケーティングそのものが音楽になるのです。わかりますか? 滑っているだけで、その人の全身から音楽が聞こえてくるのです」というのはおそらくそういうことなのだろう。そしてそれをきわめて高度な形で実現したのが昨季の世界最高点の演技だったのだと思う。もちろん他の演目でも、羽生くんは「自分なりの表現したいこと」を「スケートとして、多くの人に伝わる表現」に結びつけるのが抽象型としてはうまい方であるのは間違いないと思うが。
 今季も「自分なりのプリンス」「自分なりの木や風や水や自然にあるもの」「自分なりの白鳥」を高度にスケートの演技として抽象化してみせてくれている羽生くん。「自分なりの」でありながら、表現の振り幅が非常に広いというのは、羽生くんの内部世界がきっととても豊かで多様だということなのだろう。
 そういえばIce Jewels vol.5で羽生くんが、Hope&Legacyについて「僕が主人公ではない」「空間の一部として僕が存在するくらいの位置づけで」といったことを述べているがこれも興味深いことである。音楽と、表現として現前させたい自然のものとのあいだを媒介するものとして、演技する自分の身体がある、といった感じで自分の存在を抽象化しているのかなあ、と感じた。

 と、羽生くんが抽象型であることを断定したような書き方をしてしまったが、もちろんあくまで私の推測である。ただ、私自身アマチュアで詩歌を書いていて、その表現型がコテコテの抽象型なので、抽象型の感覚の方がわかりやすいところがあり、そのへんで羽生くんが抽象型ではないか、と感じる勘のようなものが間違ってないといいな、と思っている次第である。

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 最近いろいろな事物をキャラとして擬人化するのが流行っているが、これも一種の抽象化と云えるのだろう。ただ、あまりに流行りすぎて「擬人化すりゃいいってもんじゃないぞ」とついつい思ったりもする。しかし羽生くんファンの人たちが羽生くんのジャンプを擬人化したりするのを見ていると「わかるなあ」となってしまうのであった。
 というか、羽生くん本体が、何か高い次元の概念の擬人化ではないだろうか、などとも思ってしまったりもするのであった。

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 「アスリートの魂」楽しみだが、地上波族の私はどうやら3月20日(19日深夜)までおあずけをくらうらしい。残念だがしょうがない。


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03.05
Sun
 『チーム・ブライアン 300点伝説』を読んで思ったことはいろいろあるけれど、トータルとして云うと、羽生くんがチーム・ブライアンに在籍していてよかったなあ、ということになる。GOEやPCS対策がばっちりだったからとか、スケーティングをしっかりと磨いてくれたからとかいう話は以前の記事で触れたが、やっぱりつまるところ、オーサー氏の人柄とクリケットクラブのシステムの良さだな、と思う。
 まあ、この本で触れられているのは主に羽生くんとフェルナンデスくんという二人の成功例だし、チーム・ブライアンのよさを前面に押し出す記述になっているから「よかった」と思えるのは当然かもしれない。オーサー氏が優れたコーチであり、またクリケットクラブは多くのスタッフが在籍して、選手の能力や個性に応じて誰が担当するかを決め、スタッフ間でもコミュニケーションが活発で互いにフォローが行き届く、という形になっているため、実際に比較的多くの選手にとってよい環境にはなりやすいとは思う。とはいえ、人どうしのことではあるから、必ずしも全ての選手にクリケットクラブが合うとも限らないし、現にクリケットを去って行った選手たちもいるわけである。ただ、少なくとも羽生くんとフェルナンデスくんにとってはオーサー氏との相性がよく、またクリケットクラブのスタイルも合っていたということなのだろう。
 私がこの本でオーサー氏に安心感を抱いた大きな理由は、中国杯のハン・ヤン選手との衝突事件、およびボストン世界選手権でのデニス・テン選手との一件にまつわる記述にある。その二件は、羽生くん自身にとっては相当にエモーショナルな要素を含むものであったことは云うまでもなく、またファンのあいだにもさまざまなエモーショナルな反応を引き起こしたのも無理もないことである。ただ、私としてはこれらの件は、エモーショナルな方に現場が引きずられるのはちょっとまずいなと思っていた。けれど、少なくともこの本を読む限りでは、それらの件に対するオーサー氏の当時や事後の対応、またそれらの件に対する見解が、とても冷静でバランスがとれていて賢明だと感じたのである(と、私より年上のオーサー氏に対してなんかエラそうな云い方になってしまうが)。
 もちろん、普段のコーチとしてのオーサー氏が羽生くんの個性を理解し、羽生くんの自律性も尊重しつつ、ここぞというところでは手綱を引き締める手腕があるところもいいなと思う。羽生くんの頑固さに多分少しは呆れつつも、ほどほどに「放牧」して、でも大事なところではきっちりと話し合いなどをする、そういうことは云うのは簡単だが実際にちゃんと行うのは結構難しいと思う。もちろんそれこそ人どうしのことだから、いつもいつも100%行き届いているとは限らないだろう。練習に対するアプローチの仕方も常に意見が一致しているわけではないこともたとえば今シーズンの4ループを巡るやりとりなどでわかる。でもそれでも、互いの信頼関係としてはかなり強固なものが築かれてきたのではないかと感じる。これについては、オーサー氏の器量とバランス感覚のようなものが大きいのではないだろうか。これがたとえばもうちょっとアクの強いタイプのコーチだと(というとなぜか私の頭の中にはモロゾフ氏が出てきてしまうのだが)、良くも悪くも自我がかなり強いタイプの羽生くんとはうまくゆかないだろうな、と思うのである。

 この本では羽生くんとフェルナンデスくんとのタイプの違い、またそれに対するオーサー氏やクリケットクラブの対応の違いも、前の『チーム・ブライアン』同様浮き彫りになっていて面白い。特に今回フェルナンデスくんの「成長物語」としてはなかなかにドラマティックである。そして羽生くんとフェルナンデスくん、お互いがいたからこそ能力が伸ばし合えたのだ、ということも実感的に伝わってくる。

 これから平昌五輪に向けて、チーム・ブライアンがどんな戦略を見せるのか、楽しみだ。

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 しかし四大陸選手権より前からこのブログに書こうと思っていたネタがまだ消化しきれていない。「アスリートの魂」が羽生くんをとりあげるという情報も入ってきてるし、なんだかんだ云っているうちにあっという間に世界選手権が来そうである。多くのファンの方がそうだと思うが、羽生くんのことを中心に生活を回すわけにはいかないのがつらいところである。
 世界選手権はできるだけコンディションを整えて観たいなあと思っている。四大陸選手権のときはスケジュール的な不運もあって、結構コンディションががたがた、特に男子ショートの日などはせっかくの生放送のテレビの前にたどり着いたときには泥のように疲れていたりしたので。でも世界選手権は年度末年度始にかかるから、結局多分なんとなく気分的にあわただしい状態で迎えることになるのかなあ……。
 などと思うのだが、羽生くんもどんな状態でもいい演技をできるようにしたいと云っているので、見習って、どんな状態でもいい応援の念が送れる?ようになりたいものである。

追記:
 ブライアン・オーサー氏のお父様が3月3日ご逝去とのこと。謹んで哀悼の意を表します。

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