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04.29
Fri
 ネットニュースで読んだところでは、羽生くんは怪我の影響で来季のプログラム作りが例年5月なのが6月にずれこむとか。くれぐれも身体を大事にして、いいプログラムをまたしっかり作ってくれたらと思う。
 ところでその来季のプログラムはどうなるのだろうか。ジャズがどうとかとかどこかで目にしたような気もするがそれはエキシビションの話だったような気もする。どんな曲でくるだろうか。ソチ五輪のシーズンで候補にあがっていていつかやりたいと云っていたというカルミナ・ブラーナがくるということはあるだろうか。Sportiva(集英社)の記事でオーサーコーチが「ユヅルに『コミカルに滑りなさい』なんて言わないし」と云っていたからコミカル路線はないだろう。でも確かに王道コミカル路線は似合わないかもしれないが「小粋でおしゃれなコメディ系」とかなら意外と行けそうな気がするのだがどうだろう。だからといって具体的な作品名は、映画とか舞台とかそれに関連する音楽に詳しくないので挙げられないけれど。逆に、あえて無機質な感じの音楽で、羽生くんの技術、滑りの完成度と美しさを有機的に際立たせるなんていうのもいいんじゃないかと漠然と思ってみたり。あと、以前「音楽は力。今君は、それを手にしている」という記事で述べたように、ここのところずっとフリーは何かしら物語性があるものが続いているので、フリーで、ストーリー性のない、音楽性のみのような曲でやってみてほしいという希望もある。
 とはいえ、どこまでも素人なので、戦略的にどんな曲がいいか、実際問題としてどんな演目が合うのか、ということは正直よくわからない。
 以下、試合プログラムとしての実用性とかは一切抜きにして、単に「私が観てみたいプログラム妄想」を書いてみる。

◇リスト「愛の夢 第三番」
 フィギュアスケートの曲としてはもう手垢がつきまくっている曲と云えるだろうが、ただ私がこの曲をとても好きだというだけだ。好きな曲だから羽生くんが演じてくれたら嬉しい、ただそれだけだ。できればピアノのみの編曲で。あの甘美な旋律に、羽生くんのジャンプやスピンやステップやその他もろもろがみごとにシンクロするのを見せてくれたら、どんなにかうっとりできるだろう。羽生くんが愛の夢を見ているというよりは、羽生くんが愛の夢の精のような感じで演じてくれたらいいかもしれない。衣装は、淡いローズピンクと淡いブルーのグラデーションみたいな感じでサッシュベルトがシルヴァーとかかなあ。

◇L’Arc-en-Ciel「虹」
 これも私が好きなだけだ。試合と云うよりはエキシやショーナンバーという感じだろうか。ラルクファン、hydeファンの私としてはこの曲はhydeのヴォーカルと歌詞ありきなのだが、しかしスケートに合わせるならば、インストゥルメンタルで編曲した方がいいかもしれない。ヴォーカルメロディーはヴァイオリンかな。強さと美しさのある旋律なので、羽生くんの滑りには合うと勝手に思っている。この曲については私が振り付けできる……とまでは云わないが、ある程度イメージできる。イントロの最初のところは顔を伏せてただ立っていて「ばーん」という音のところで顔を上げる感じかな、とか、後半のサビの入り、歌詞で云うと「せつない人よ」のところでレイバックイナバウアーかな、とか。衣装はダークグリーンと黒のむら染めとか。

◇沖田総司
 どんな音楽を持ってくれば沖田総司になるのかよくわからないが、オリジナルで作ってもいいんじゃないかと思うが、とにかく羽生くんに「沖田総司」を演ってもらいたいだけだ。羽生くんは陰陽師をやるに当たって「自分は武士というタイプじゃないけど陰陽師は合うと思った」的なことを云っていたかと思う。たしかに武士というタイプではないけれど、剣士ならいけるのではないか(ちなみにもうちょっと羽生くんが若い頃は、牛若丸演ってほしいなとも思っていた)。私は沖田総司というと小説で新選組ものを若干読んだことがあるのと、映像では「御法度」の武田真治さん「壬生義士伝」の堺雅人さん「新選組!」の藤原竜也さんくらいしか知らないのだが、斬って斬って斬りまくって血を吐く、みたいな感じ、ちょっと常人離れしたうら若き天才剣士のイメージ、そのあたりは羽生くんとよく合うと思うのだ。それと沖田総司だったら演技中にいくらでも阿修羅顔、鬼神顔をしてもいいと思うし。衣装は、典型的な浅葱色の隊士服をアレンジした感じではない方がいい。「御法度」や「壬生義士伝」では隊士服が黒モチーフだったが(そういえば佐藤洸彬選手が「壬生義士伝」演じてたのも印象的だったなあ)、羽生くんの衣装としても黒をメインに、だんだらをちょっとだけ、しるし程度にどこかに象徴的に取り入れるくらいか。まちがっても背中にでかく「誠」とか書いてはいけない。

◇和太鼓オンリーの曲
 SEIMEIでもステップのところに太鼓オンリーのところが少しあったけど、最初から最後まで和太鼓オンリーという曲でやってみてほしいなんて思ってしまう。旋律がない分やりづらいかもしれないけれど、羽生くんの滑りを旋律にする、というぐらいの感じでやってみてほしい。羽生くんならできると思うのだ。誰かオリジナル曲を作ってくれないか。羽生くんの滑りのためだけに、とことんそのために作り込んだ曲を。衣装は「練習着か?」というぐらいシンプルな黒で、羽生くんの身体の線の美しさを際立たせる感じで。

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 羽生くんの怪我の具合をシリアスに心配しつつも、「徹子の部屋」の野村萬斎さんゲストの回を観て、ああやっぱり萬斎さんにとっても羽生くんは話し甲斐のある相手だったんだわ、と嬉しくなったり、「週末仙台」の今週末の追加配布は首都圏だけなのか、とため息をついたり、羽生くんが熊本の被災地支援をしたというニュースにおおっと思ったり、そして「殿、利息でござる!」のメイキング映像を観てにこにこしてしまったり、羽生くんファン心理は忙しい。

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04.27
Wed
 昨日からネットニュースが何本も出ているが(たとえばこちら)、全治二か月とは。いろいろな情報を見るに、シーズン中かなり早い時期からからすでに傷んでいて、一月のアイスショーには痛み止めを打っての出演だったそうだし、世界選手権は枠取りも絡むので棄権もしづらかっただろう。
 くれぐれも大事に、しっかり治療してほしい。
 にしても、全治二か月とはどこのタイミングから数えて二か月なのだろう。上記にリンクした記事でも「当面アイスショーの出場は見送る方針」とあるが、当面とはどのくらいのことなのか。ということが気になってしまうのは私がファンタジーオンアイス長野のチケットを押さえているからだ。羽生くんが出ないという確率も高くなったと思うし、そうなったら正直残念ではある。そうなっても行くけれど。
 ただそれはもちろん私の個人的事情であって、何にせよ、治療を最優先してほしいという気持ちも本当である。
 羽生くんには本当に多面的な魅力があるけれども、まずなんといっても私が基本的に一番好きなのは「フィギュアスケーター羽生結弦」なのだ。決定的にファンになったのも「演技」がきっかけだったし、なんだかんだ云いつつもとにかく「羽生くんの演技」が本当に好きなのだ。だから、応援する。もちろん、私以外にも応援している人はたくさんいて、羽生くんはそれを力に変えてくれて演技をしてくれていると思う。とはいえ、いくら私たちが応援しても、いくら羽生くんがそれを受け止めて力に変えて演技をしたいとと思っても、それはやはり羽生くんの身体が十分な状態であってのことだ。羽生くんの身体は世界でただ一つ、こればかりは誰がどんなに応援しようと心配しようと代わってあげることはできないものだ。だから、本当に大事にしてほしい。できるだけ今後の経過がよい形で運ぶようにとにかく祈る。
 かなり前だと思うが、たしか羽生くんは「僕は怪我なんかで絶対に消えたりしない」といった趣旨の発言をしていたかと思う。そうであって欲しい。

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 この記事は出先からアップしているのだが、今頃「徹子の部屋」で野村萬斎さんが羽生くんとの対談についても何か話しているはず。録画を観るのが楽しみである。

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04.25
Mon
 前回の「羽生結弦選手「バラード第一番」讃」に引き続き、今日はフリーの方を。
 羽生くんが今季のプログラムを「陰陽師」にすると聞いたときはびっくりしたし嬉しかった。いつか和ものをやって欲しいなあと漠然と思っていたこともあり、また「陰陽師」というチョイスは絶妙だなと。羽生くん本人も「和の繊細さや力強さを出せるのは僕だけ」という自負を見せていたけれど、本当に羽生くんだからこその演目だったなと思う。振付のシェイ=リーン・ボーンさんも「映画の主人公とユヅルは似ている」というようなことを云っていたみたいだけれど、野村萬斎さんの安倍晴明と羽生くんの雰囲気は確かに通じるものがある。ちょっと此の世離れした感じ。安倍晴明は「狐から生まれた」伝説があることは「羽生結弦くんの超越性」という記事にも書いたが、二人ともちょっと「狐から生まれた」といっても通じそうな雰囲気を持っている。
 演目を「SEIMEI」と羽生くんが自ら名づけた、単に安倍晴明というだけでなく同音異義語のいろいろな意味をこめたというのもプログラムに対する思い入れが感じられて印象深い。意味もだが「SEIMEI」という言葉の音も心地よいと思う。
 あと、陰陽師という題材は、映画や小説としてはそれなりのストーリーはあるとしても、そのストーリーそのままべったりというよりは、陰陽師という存在性そのものを抽象的にあらわすことができるような題材であることもよかったと思う。安倍晴明自体が、たとえば「ロミオとジュリエット」のロミオや「オペラ座の怪人」のファントムなどと比べれば、時代が古い分より神秘性も感じられる題材ということともあいまって、かなり抽象的なキャラクターだと云えるだろう。陰陽師のストーリーを演じる、安倍晴明という人間を演じると云うより、陰陽師という一つの「型」を演じるプログラムだという印象を私は受けた。これが、羽生くんの、音感の良さ、音楽と演技をシンクロさせることのうまさを、ストーリーやキャラを直接演じる感じの演目より引き立てていたのではないかと思う。振付に優雅さと切れがあり、陰陽師というものをよくあらわす一方で、羽生くんの持ち味をとてもうまく引き出していたと思う。欲を云えば、オータムクラシックのときにだけ見られた、ステップ中のバックのクロスロールを残して欲しかったが……レベルをとるために仕方なく変更したのだろうが。
 陰陽師という「型」を演じると云うことは、安倍晴明という人間としての存在だけでなく、安倍晴明が陰陽師として感受したり司ったりする日月星辰、森羅万象、そういったものを体現することでもある。羽生くんは野村萬斎さんとの対談の後、リンクで感じる風一つについてもこれまでと違って感じられるようなことを云っていたし、グランプリファイナルでは「自然」ということを意識していたような発言もあったかと。
 しかしそれ以前、このプログラムがショーヴァージョンとして披露されたドリームオンアイスの時、すでに「和の森羅万象」を思わせるものにはなっていたと思う。私はそれを一列目で観るという幸運に恵まれたのだが、その生で観た印象と、そのあと映像で観返した印象で、すでに「仄暗い中で陰陽師が舞うと、その身体を風や水など森羅万象が通過してゆく」というようなイメージを形成していた。あと、コレオのハイドロブレーディングは結界を張っているイメージ、レイバックイナバウアーは集めた力を放散するイメージだということはおそらく多くの人が最初から感じただろう。もちろん羽生くんも最初からある程度のイメージは持ってのぞんでいただろうが、野村萬斎さんとの対談で「天地人を司る」「型(振付)を自分で解釈する」ことを意識したりなどして、羽生くんの中でもさらにイメージがきっと濃密化していったのではないかと思う。
 音楽の編集にも羽生くん自身が関与し、たしか32通りも編集したのだと編集の方がおっしゃっていたかと。羽生くんが羽生くんらしく演じるために、いろいろなことがみごとに輻輳した、極上のプログラムだったと思う。そして、羽生くんは自らの力、多くの人からもらった力、そしてその時その場の「気」とでもいうようなものをNHK杯とGPFでは自分の身体に焦点を合わせ、プログラムをみごとに昇華した。4分半のあいだ、あの演技を観ていた私たちは、羽生結弦が出現させた玲瓏たる結界の中に封じられ、いわば一つの異界を体験したようなものだ(テレビ越しでもそう感じられたのだから、当日現場にいた方々はきっととても陶酔的な気分を味わわれたのではないかと想像する)。ただ、NHK杯の時のルッツ後のガッツポーズと、フィニッシュポーズと同時にはじけてしまった笑顔については、プログラムとしての完成度を考えた場合にツッコミを入れたくなったのも事実だが、気持ちとしてはわかるので……まあそういう、時に自我を隠しきれないところが羽生くんの可愛いところ、ということにしておくか。
 このプログラムがあまりに好きすぎて、一季だけで終わってしまうのがさびしくて仕方がない。たとえば、ヴァージョンアップ版を五輪シーズンに再登場させてくれたりしないだろうか。そんなことを夢見てしまうくらい、このプログラムは「ザ・羽生結弦」だと思うのだ。

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 Sportiva(集英社)を読むと、世界選手権フリーの時、羽生くんの足の状態はかなり厳しかったことがうかがわれるし、またあのときの氷の状態が悪かったのも、羽生くんのようなジャンプの幅を跳ぶタイプには特に不利だったのではないかとの考察もある。そのどちらも羽生くん本人は云い訳にはしたくないだろうけれど、ファンとしては心に留めておこうと思う。

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 チームチャレンジカップで宇野昌磨選手がショート、フリー共に4Fを成功、スコア的にも300点クラブ入りが間近かというようなところに来た。シニア一年目とは思えないすばらしい活躍だ。きっと羽生くんも闘志を新たにしていると思う。とはいえ、くれぐれも身体に気をつけてほしいが。
 あと、四回転はなくてもジェイソン・ブラウン選手の演技は好きだと改めて思った。

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 兄弟子のハビエル・フェルナンデス選手は絶賛恋愛中、弟弟子のナム・ニューエン選手も恋に燃えての(?)クラブ移籍という今日この頃、羽生くんの恋愛事情はどうなっているのか、気にならないと云えば嘘になる。スケートの練習と大学の課題、そして息抜きの音楽やゲーム、それ以外に恋愛に回す体力気力時間は残っていないのではないかと個人的には推測しているが。でも何らかの恋愛が進行しているのなら、あるいはこれからするのなら、しかるべき時期まではどうか極秘裏にうまく育まれることを祈る。バレたらメディアなどがえらい騒ぎになることは目に見えているから。

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04.23
Sat
 羽生くんが今季演じていたショート「バラード第一番」フリー「SEIMEI」どちらもとても好きなプログラムだ。でもどちらも今季で終了だ。それらのプログラムについて思ったことなどあらためて書いておきたくなったので。今日はショートの方を。
 このプログラムは昨季からの持ち越しだが、最初にショパンバラード第一番に決まったと聞いたときとても嬉しかった。私はピアノの音が好きなので(昔一応習っていた)、いつかは羽生くんがピアノだけの曲を演じてくれたら嬉しいなと思っていたので。そしてそのプログラムが初披露となったドリームオンアイスの映像を観て、ますます嬉しくなった。綺麗なプログラムだなあ、と。
 でも羽生くんを手こずらせたプログラムでもある。このプログラムの持ち越しを決めたのは、たとえは悪いが「一度くどいた女は墜とさないと気が済まない」的な、プログラムに対する負けず嫌いが発動したのではないか、と思っている。今季のスケートカナダからNHK杯の間に構成を大幅変更したのも「墜ちないんだったら口説き方を大胆に変えてやる!」みたいな。それで結局、墜とした。羽生くんの粘り勝ちである。
 構成を変える前の、イーグルサンド3Aも捨てがたかったが……しかしあの短期間で構成を大幅に、しかも難易度を上げる方向で変えてきて、さらにあれだけ音楽とのシンクロを達成してきたのには本当に驚いた。
 私はNHK杯の後、あるところで、このプログラムを演じる羽生くんのことを「ヴィルトゥオーゾ」と表現した。ヴィルトゥオーゾとは超絶技巧を持った演奏者という意味だが、このプログラムを演じこなした羽生くんはまさしく氷上のヴィルトゥオーゾだと思う。昨季はどちらかというと曲に「奏でられている」印象の方が強かった感もあるが、そして曲に奏でられる器となって演じるというのもそれはそれとしていいものだが、今季のいいときの演技は自ら「奏でている」感が出ていたと思う。羽生くんの身体や軌跡から音符がきらめきこぼれる感じ。現在のスケーターとしては羽生くんは超絶技巧の持ち主と云って間違いない領域の人だと思うので、その技術力と音感の良さとがあいまって、表現としてみごとなものになっていた。曲とジャンプとのシンクロのすごさはもちろん、この曲ではスピンの表現の繊細さがとりわけ素晴らしかった。とくにシットスピンのニュアンスの出し方はため息ものだった。あと、個人的なお気に入りポイントは、最初にドリームオンアイスの映像を観たときから、最初のジャンプのしばらく後にある、一回くるっと回ってふっとためをつくって、今度は逆にくるっと回る、というところである。
 NHK杯のフィニッシュの時の鬼神顔とか、世界選手権のフィニッシュ後の咆吼とかは、曲の雰囲気とは合ってないと云えば合ってなかったが、それだけの闘志を込めなければ滑りこなせない曲だったというのが最後に思わず噴出したということで、まあご愛敬ということにしておこう……。
 ただ「鬼神顔」や「咆吼」とはちょっと方向性が違うけれど、バラード第一番という曲にはそれ自体としての激しさ、もの狂おしさがある。私の、羽生くんが演じた編曲でのバラード第一番の印象は「最初は静謐に包まれていた激情が、うねりながら徐々に溢れてきて、最後には迸る」という感じ。その激情も単なる激しさではなく、なんというか「蒼ざめた激情」というような感じ。これは羽生くんの衣装の色に影響されてるかもしれないが。あ、衣装は正直昨季の、より青の色が深くて、金色のアクセントはなくて、ベルトも黒、という方が好きなのだが、それはさておき、技術的な意味でも表現的な意味でも、このバラード第一番の持っている激情、もの狂おしさに見合うだけの熱量の激情、もの狂おしさを羽生くんは持ち合わせている、だから最後には、この曲をみごとに演じこなすところまで到達できたのだと思っている。
 珠玉のプログラムとはまさにこういうのを云うのだと思う。そういう演技を観られて幸せである。

 バラード一番の原曲はもっとだいぶ長く、羽生くんのプログラムでは省かれた部分でも「ああ、ここのところを羽生くんが演じるとしたらどうなるか観てみたい」というようなところもある。たとえば羽生くんがプロのスケーターになってから、ショーナンバーとして、このバラード第一番のより長めのヴァージョンを演じてくれたりしたらいいのに、と夢想してしまう。その際にはジャンプの難易度どうこうよりは、音の表現を洗練し極める方向で。想像しただけでうっとり。

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04.21
Thu
 ひとつ前の記事「『羽生結弦 王者のメソッド 2008-2016』(文藝春秋)を読んで思ったことなど」を書き終わってしばらくして、あれ、と気づいたことがあった。私が書いたことを一部抜粋する。
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 羽生くんの「メソッド」の細かく一つ一つについてあれこれ云い出すときりがないが、比較的最近の「プレッシャーを感じている自分もそれと認めて受け入れる」「そのときその場でしかできない演技をする」といったあたりは特に印象深い。(中略)なんにしても「そのときどきの状況とそれに伴う感情を認めて受け入れる」「そのときその場を大事にする」というようなことは多くの人、多くの状況に応用のきくメソッドだと思う。
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 この「そのときどきの状況とそれに伴う感情を認めて受け入れる」「そのときその場を大事にする」は何か覚えがあるぞ、と思ったのである。そして思い出した。私は臨床心理学を少し勉強したことがあるのだが、その中で出てきた話だ。
 いわゆるカウンセリングにはいろいろな流派というか技法というかあるのだが、スタンダードの一つと云えるものにロジャースが創始した来談者中心療法というものがある。詳しいことは省くが、この療法で重視していることの一つに「無条件の肯定的受容」というものがある。カウンセラーはクライエント(来談者)について「ここはいけないからこうしなければならない」などの価値判断を交えず、ポジティヴな面もネガティヴな面もありのままに認める、受け容れるということである。そして、この療法では、クライエントの「今、ここ」での状況や気持ちを大事にするということが大きなポイントである。
 つまり、試合前の緊張やプレッシャーもそれとして認めよう、という境地、今日だからこそできる演技をしよう、という境地に辿り着いた羽生くんは、自分に対して自分がカウンセラーになることができたようなもの、セルフカウンセリングを行うことができたようなものである。
 世界選手権の後、緊張の質に適応しきれなかった、身体と頭と心のバランスが自分の最後のテーマといったようなことを云っているが(Number誌900号より)、そのバランス配分は当然、ひとつひとつの試合の状況に応じて調整する必要がある生ものだろう。羽生くんはこれから未知の領域を歩き続ける人なのだし、その調整はこれまでよりも難しく精密なものを求められる局面が多々あるに違いない。けれどそういうときにもきっと「自分の状況や感情をありのままに認めて受け容れる」「今このときの試合でしかできない演技という意識にフォーカスする」ことはきっと役だってゆくのではないか。カウンセラーがクライエントを受容し今ここを大事にすることでクライエントの自己肯定、(解決につながる)気づきへとつなげるように、羽生くんが自分を受容しそのときの試合でしかできない演技という思いを大事にするということができれば、自分を改めて肯定でき、バランス配分の一番いい感覚が(おそらく言語化するのは難しいような感覚ではないかと思うのだが)つかみやすくなるのではないだろうか。
 と、カウンセリングもスポーツも素人のくせに語ってみた。スポーツ心理学をやっている先生の話もちょっと聞きかじったことがあって、その先生はアスリートのメンタルコントロールはとてもデリケートなものだと云っていた。羽生くんぐらいもう極限的境地で戦っている人のメンタルコントロールはデリケートの上にデリケートを極める領域だろうから、本来、素人がどうこう云える領域でないのはまあ確かだな。

 メンタルコントロールとは方向性の違う話になるけれど「今ここ」での演技を大事にするということは野村萬斎さんとの対談にあった「場をまとう」ことともつながるし、萬斎さんが云っていたように「ここにすごい生きものがいる、生きてて良かった」と観た人に思わせるような演技へとつながってゆくことでもあるな、とあらためて思ってみたりもした。

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04.19
Tue
 「メンタルが強い」とよく云われる羽生くんだが、その強さとは鋼のような強さ、動じないといったタイプの強さではなく、自分のことを分析してその結果をもとに自分をコントロールする、そのコントロール力の強さなのだということは前から感じていた。その自己分析力、分析結果の言語化能力がすごいということも前から感じていた。その実際に焦点を当ててドキュメンタリータッチでまとめてくれたこの本は読み応えがあった。
 自己分析とコントロールの繰り返し、といっても決してスマートにそれをこなしているわけではないな、というのが読んで改めて思ったことだ。分析力もコントロール力も人並みよりはとても優れているとは思うけれど、それでもむしろ不器用に試行錯誤している印象だ。メンタルそのものがとてもタフにできていていつでもなんでもどんとこいというわけではなく、あくまで状況に応じたコントロール次第で羽生くんの出す結果は左右されるわけで、そしてコントロールというものは未知の要因等があればうまくゆくとは限らない。そのあたりでもがいてきた記録だ。
 ここのところ、三浦しをん氏のエッセイ集『桃色トワイライト』(新潮文庫)を読み返していた。そうしたらイチロー氏と松井秀喜氏の対談の番組を見て著者が知人と会話するところがあった。一部引用する。
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 イチローは番組のなかで、プレッシャーやストレスで吐き気がしたり、呼吸が苦しくなったりする、と言っていた。バッティングで不調が続いたときには、絶え間なくその原因を探し当てようと努める。そうしていると、なんでもない凡打をきっかけに、「どうして自分が不調に陥ったかが明確にわかる」のだそうだ。その瞬間の感覚はきっと、言語化するのは無理なレベルの出来事で、野球をやったことのない私にしてみれば、「悟りに近いんだろうな」と想像するしかない。
 しかし松井さんは、「いい当たりだった」という好感触から復調のきっかけをつかむことはあるが、「凡打をきっかけになにかをつかんだことはない」と言う。また、プレッシャーやストレスは、まったくといっていいほど感じないらしい。たとえ試合でうまくいかない日があっても、次の日にまた球場へ向かえば、「よし、やるぞ」とプレッシャーもストレスも忘れてしまう。
 なんと対照的なのだろうか。
 「この二人が、野球の神に選ばれた人間なのは間違いないよね」
 「ありませんね。でも、選ばれ方がどこか違います」
 「うん……。イチローさんは、野球を高い次元で表現する使命を与えられ、苦しみながら試練を越えていくよう運命づけられたひとだよ。だけど松井さんは、もっと単純に、ただただ野球の神に愛されているひとだよね。野球神も『ういやつ、ヒデキ』ぐらいに思って、いつもニコニコと彼のプレーを見守っている感じがする」
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 このイチロー氏のあり方から羽生くんを連想せずにいる方が難しい。「イチローさんは、野球を高い次元で表現する使命を与えられ、苦しみながら試練を越えていくよう運命づけられたひとだよ。」を「羽生くんはフィギュアスケートを高い次元で(以下略)」と入れ替えてもぴったりはまるではないか。私はスポーツ全体にはあまり詳しくないのだが、スポーツ界で一番好きな人はもちろん飛び抜けて羽生くんで、そして多分その次はイチロー氏だ。どうやら私は「天才ではあるがストレスやプレッシャーと無縁ではなく自己分析して試行錯誤する求道者タイプ」が好きなのだ。しかしイチロー氏は野球だから結構しょっちゅう試合があってその都度試行錯誤しながらそれなりの成績を保てたりしてきたのだろうが、羽生くんは試合数が少ないフィギュアスケートだから、試行錯誤の結果を出す機会も少ないし、その一回一回の結果が結構重みをもってどーんと出ちゃうところがしんどいといえばしんどいなあと思ったり。
 ところで、羽生くんがイチロー氏タイプだとすると、フィギュアスケート界に松井氏タイプはいるのだろうか、いるとして誰だろうか。確信を持って云えるわけではないが、ハビエル・フェルナンデス選手(以下ハビ兄)はちょっとそれっぽいかもしれない。もちろんハビ兄はハビ兄なりに努力も試行錯誤もしているのだと思うが、羽生くんほど孤高の求道者的な雰囲気は感じない。『チーム・ブライアン』を読んでみても、羽生くんとは性格的にもかなり違うようだ。先日のハビ兄のインタビュー(今日アップされたオーサー氏のインタビューも)を読んであらためて思ったが、チームブライアンではそのタイプの違う二人がいわばお互いを砥石にして自分を磨き合っているというような状態なのだろう。すばらしいことだ。しかしそもそも羽生くんの方は最初からハビ兄を砥石にする気満々でクリケットクラブに乗り込んだわけだが、ハビ兄からすれば、砥石が向こうから転がり込んできてくれたようなものである。このあたり「フィギュアの神にただただ愛されている」感じがしたりしてしまう。こないだの世界選手権では怪我をしていたのに「フリー本番の時には痛くなくなっていた」というあたりとかも。

 羽生くんの「メソッド」の細かく一つ一つについてあれこれ云い出すときりがないが、比較的最近の「プレッシャーを感じている自分もそれと認めて受け入れる」「そのときその場でしかできない演技をする」といったあたりは特に印象深い。あの年齢でそういうことまで実感的に辿り着けるというのは本当に凄いことだと思う。私など、羽生くんの倍以上生きているのに、自分の状況やそのときの感情をそれとして認めて受け入れる、なんてことはようやく最近わかりかけてきたかな、ぐらいである。それは私の成長が遅すぎるのだと云われれば返す言葉はないのだが。でも、なんにしても「そのときどきの状況とそれに伴う感情を認めて受け入れる」「そのときその場を大事にする」というようなことは多くの人、多くの状況に応用のきくメソッドだと思う。
 今後も羽生くんがどんな自己分析をし、どんなコントロールをしてゆくのか、そしてそれをどのように言語化して我々に提示してくれるのか、期待して見守りたい。

 表紙の写真がとても好きである。おそらくNumber誌に以前載ったものと同じかと思うが、最初に見た時点からすごくいいなと思っていた。強い意志と知性、そしてある種の精悍さを感じさせる表情。
 他のも、写真はどれもいいなと思う。しかし(Number誌に掲載された時点から思っていたが)枯れ葉の上に寝ている羽生くんという構図を見るとどうしても森茉莉氏の元祖BL小説ともいうべき作品のタイトル『枯葉の寝床』(新潮文庫『恋人たちの森』収録)を思い出してしまうのだ。いや、羽生くんがその小説の世界観にぴったりというわけではないのだが。

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 羽生くんはトロントで治療に専念している由、治るまでじっくり落ち着いて過ごしてくれていたらいいなと思う。ファンタジーオンアイス長野のチケットを確保している身としては出演してくれたら嬉しいには決まってるが、治療を優先するためなら出演しなくても怒らないし、転売もしないから。


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04.17
Sun
 亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
 助けが必要な方々に必要な助けがなるべく早く行き届きますように。余震が早くおさまりますように。地震そのものは人間がどうすることもできませんが、できるだけすべてのことができるだけよいほうに運びますように。

 私は福岡県北部在住である。震源地付近とは比べものにならないが、それなりに揺れたし、それなりに余震もきた。特に昨日は、1:25の本震で揺り起こされてからは、余震で朝までほとんど眠れず結構参った。幸い、今は身体に感じる余震はほぼないので人心地ついたが。健康状態を崩さないようがんばりたいと思う。
 私はだいたいにおいて何に対しても人より怖がりなのだが、特に地震に関しては弱いようだ。「福岡は地震が少ないし、せいぜい震度3くらいまで」という感覚を長く持っていたのだが、それが2005年の福岡西方沖地震でがらがらどっかんと崩れた。そのとき私のところでは震度5弱だったのだが、ものすごく怖いと感じた。それ以来、地震に対してはとても敏感、怖がりになってしまった。
 今回の震源地付近、あるいは過去の大地震で被災した方(羽生くん含む)の恐怖やその後の消耗はいかばかりかと思う。正直私の想像力のブレーカーは落ちてしまう。
 できるだけ早く、皆が平穏な日々に戻れるといいと思う。もちろん微力だができることはしてゆこうと思う。

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04.13
Wed
 ずんだ、ずんだ、ずんだだだっだ、ずんだ、ずんだ、ずんだだだっだ……。
 軽快なリズムに乗って、頭の中を羽生くんとずんだ餅が行進する。「週末仙台」のせいである。羽生くんがずんだ餅をもぐもぐしているところを見るだけでどうしてこんなに幸福になれてしまうのだ。それを見たって仕事の面倒くささだの日常生活のわずらわしさだの、あれこれの諸問題などが解決したり消えたりするわけじゃない。けれど見ると幸せなのだ。そもそも昨日はアクセスが集中していたのかページが重くてなかなかつながらなくて、やっとつながったページを見てとても幸せになってしまい、ページを閉じたくないあまり寝るのが遅くなってしまった。
 世界選手権と情熱大陸で大きくシリアス方向に振っておいて、週末仙台でいきなり胸キュン方面に振ってくる。その振り幅のでかさはなんなのだ。振り幅がでかいことは惚れた当初から知ってはいたが、四年経った今でもこれだけインパクトを受けるとは。羽生結弦あなどりがたし。いやもちろん今まであなどったことなど一度もないが。
 週末仙台は記事内容としても充実していると思う。もちろん無料配布の冊子がもらいたい。しかし直接入手できる気は全くしないのでwebから申し込んだ。やはりアクセス集中で申込画面がなかなか出なかった。これは競争率の高い抽選必至だろう。当たりますように。「私と東北」という記事でも書いたように私は仙台とあながち無縁ではないこともあって、真面目に仙台に行きたい。仙台に行って羽生くんとずんだ餅を食べたい。いや仙台に行ったって羽生くんとずんだ餅を食べられる確率など天文学的に低いということはわかっている。云ってみたかっただけだ。ずんだ餅も大好きだし。何にせよ、今度仙台に行くことがあったらまっしぐらに七北田公園の猫のベンチを目指してやる。
 しかし「週末仙台」に載っている諸写真とか、あるいは「王者のメソッド」にあったトロントの秋の写真とかベッドらしきものに寝そべっている写真とかを見てつくづく思う。羽生くんがリアル彼氏でも無理のない年齢で、羽生くんのファンになってみたかった。そうしたらそういう諸写真を見て「羽生くんと過ごす時間」を思いっきり夢中になって妄想し、どきどきわくわくできたのに。妄想だけなら得意だから今だってできないことはないのだが、さすがに親子ほど年齢が違うという事実を認識している以上、やはり遠慮というか躊躇というかがどうしてもある。もちろん、親子ほど歳の差があるロマンス関係という方向に妄想を持って行ってもいいのだが、私はたとえば母性で包み込むようなタイプでもしっとりしたお姉さんタイプでも誘惑的な妖婦タイプでも全然ない。「年上女性」としての自分の使い道のなさに愕然とする。せいぜいがんばったところで、職場の片隅にいる独身女性の先輩(変わり者)しかもロマンスとは全く関係しない脇役といったところが精一杯だ。
 だいたい、なぜ私はこんなことを考えているのだ。羽生くんは本人も云っているようにアイドルではなくアスリートなのだ。擬似恋愛妄想の対象にするという発想自体がそもそもどうなんだ。と真面目に云ってみても虚しいだけだ。羽生くんはたしかに芸能人の一種としての「職業アイドル」では断じてない。だが、それにしては本人の「アイドル性」が強烈すぎる。というか、アイドルという言葉はもともと「ある種の芸能人」のことではなく「偶像、聖像、崇拝の対象」という意味だということを考えると、羽生結弦ほどアイドルらしいアイドルもいないわけである。羽生くんが「アイドル」だということは2013年にミッツ・マングローブさんもブログで熱く語っていて私はいたく納得したのだった。羽生くんの場合「職業アイドル」ではないからこその稀少なアイドル性がよりいっそう際だって輝くのだと云えるだろう(とはいえ、そういう意味でアイドルだとしても過剰に追っかけ回したりタイミングをわきまえずに歓声を上げたりしていいというものではない。念のため。というか、職業アイドルのファンであっても守るべきルールやマナーがあることには変わりないと思っている)。
 先ほど、羽生くんがリアル彼氏でもおかしくない年齢でファンになってみたかった、と書いたが、そう思う理由の一つには、そういういわゆる多感な年頃に、私はそういうふうに熱を上げられる有名人にめぐりあえなかったということもある。ジャ◯ーズタレントなどに熱を上げている級友たちを横目で見ていることしかできなかった私、それ以降もアイドルないしはアイドルっぽい芸能人にはまったことのない私は、おそらくそういう芸能人の「女子に夢を見せるために誂えられた感」が苦手なのだろうと思う。そこへゆくと羽生くんは、そういうふうに誂えられた人ではないにもかかわらず、ものすごい勢いで女子に夢を見せまくっている。フィギュアスケートがいくらショー的な要素が強いといっても、アマチュア選手の競技としてのフィギュアスケートはあくまでも「スポーツ」であり、表現云々も女子に夢を見せるためにあるわけではなくスポーツとしての完成度のためにある。そこがある種のストイックさを感じさせ、羽生くんが(意図せずに)見せる夢は芸能人が見せる夢にはない一種の甘美さをもたらすのだ。遅れてやってきた私のアイドル、羽生結弦。
 あと、若い頃にファンになってみたかったという理由はもう一つある。羽生くんという人の印象は私には強烈で鮮明だけれど、若い頃ならもっともっと鮮明な印象を受けられただろうと思うのだ。いろいろなことをもっと強く意識に灼きつけ、もっといろいろなことをまざまざと記憶に残すことができただろう。やはり若い頃と比べると残念ながら今は意識の純度のようなものが落ちているし記憶力も衰えている。一番いろいろなことを鮮明に感じとり覚えられる年頃にファンになってみたかった。
 とはいえ、望んでも今から若くなれることは決してないので、今は自分の年齢なりに「親子ほど歳の違う年下男子に熱を上げている自分」をふと客観視してしまう悲哀とかも含めてファンであることを味わい尽くそうと思っているが。

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04.11
Mon
 キャップをかぶった羽生くんかわいい!とか明石焼きは大阪じゃなくて明石の名物だとか、高校(?)の教室にいる羽生くんは一人まわりと雰囲気が違っていて、チョコレートの中に一個ホワイトチョコが混じってるみたいだなとか、練習着姿はやっぱりいいとか、いろいろなことを思った。怪我のことを世界選手権終わってからも云わないかも、というあたりは、そういうことで云い訳をしたがらない羽生くんらしいなとか、自分のスケートを追求したいという言葉があらためて最後に聞けてよかったなとか、そういうところも印象深い。そんな中で私にとってやっぱり一番印象が強かったのは「孤独」と「自分は弱い人間」というところだった。
 少し前に「羽生結弦選手 絶対孤独領域の輝き」という記事を書いた。そこで私が触れた「孤独」と、番組で羽生くんが述べた「孤独」とはニュアンスが異なる。でも通じる部分もあるかと思う。私は氷上は孤独な場所だからこそ羽生くんはスケートが好きなのではということを述べた。羽生くんは「孤独だけれどある意味孤独にしておいてほしい」というようなことを云っていた。そのあたりでなんとなく。
 「まわりの環境などに影響されるから、遮断しないと自分のパフォーマンスができない」「強かったらまわりがどうだろうと関係ないけれど、自分は弱いから遮断しないといけない」といった趣旨の発言をしていたかと思う。羽生くんは「弱い」と表現したけれど、弱いというよりは、人並みよりいろいろとセンシティヴなのだということだと私は感じている。なんでも鋭敏に、敏感に、繊細に感受してしまうから「遮断」というようなことを意識してやらないと集中できないということだと解釈した。ただ、その感受性があるからこそ、あのように音楽とのシンクロ感が素晴らしい演技もできるのだと思う。そしてその敏感さで、会場からの応援といった空気を感じ取り吸収して演技することができる、野村萬斎さんとの対談での文脈で云えば「場をまとう」ことができるという面もあると思う。まわりの環境などがノイズになってしまうときにはその敏感さがつらさをもたらすけれど、その敏感さがなくなれば羽生くんの良さも消えてしまうだろう。というか、おそらくその敏感さをなくすことはできないだろうと思う。諸刃の剣として羽生くんは抱え続けてゆくだろう。
 羽生くんの孤独が、羽生くんの望む形で守られることを祈る。羽生くんの敏感さに侵入してくるノイズができるだけ少ないようにと。これだけ多くの人の関心を集める立場になってしまった身ではノイズをなくすのは残念ながらとても難しいだろうというのが現実でも。
 「つらいことはつらいとして認める」といった趣旨の発言もあったかと思う。最近の羽生くんにはこういった、経験に伴う感情や状態をそのまま認める、受け入れるといったことを意識しているような発言が多い。そういうことをあの年齢で意識できるというのはかなりすごいことだと思う。それだけやっぱり濃密な経験をいろいろと積んできたということ、人より早く成長せざるを得なかったというところもあるんだろうな、と。
 経験に対してだけでなく「弱い(私の解釈ではセンシティヴな)」自分というものもそれなりにおそらく自己受容できているんだろうな、と思う。そうであってほしい。ノイズを遮断しなくても平気な「強い」人になることを望むのではなく、遮断しないといけないと感じるほどセンシティヴな自分というものをどうかしっかり肯定してあげてほしい。センシティヴであるということも一つの能力なのだから。3月18日の朝日新聞「折々のことば」欄(鷲田清一氏担当)に松岡正剛氏の次のような言葉が掲載されていたことを思い出す。
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 「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。
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 それにしても30分では物足りないと感じてしまった(まああんまり長時間番組になるようでは羽生くんの負担が増すだろうからまずいけれど)。未公開部分とかも含めて映像作品として販売されないだろうか。

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 先日の世界選手権の男子フリーの時、会場がかなり暑かったという話がある。実際に氷が一部溶けているのはテレビでも見えた。ところで男子ショートの時は暑くなかったのだろうか。というのは、羽生くんの背中が六分間練習で開いていた件について「会場がわりと暑かったから、練習の時にハイネックの衣装に熱がこもって、体温調節が難しくなることを避けるためにわざと背中を開けていたのだ、だから六練が終わるまでコーチもあえて閉めてあげようとしなかったのだ」という解釈を考えてしまっただけのことだが。

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04.09
Sat
 以前「能とフィギュアスケートと羽生結弦選手」という記事で、能とフィギュアスケートの共通点について私が感じることとか、羽生くんが野村萬斎さんとの対談から、和の舞台芸術の粋を吸収したのではないかということを書いた。羽生くんと世阿弥のイメージが重なるということもその内容は触れずに述べた。で、どういうところで重なるのかというと、すごくおおざっぱに云えばだが、二人ともその分野の天才的な求道者である、というところ。あと、若い頃の世阿弥はその容色で時の権力者である将軍に愛でられたというが、羽生くんは時の主権者である国民の多くにその容色も込みで愛でられている。
 先日、以前も読んだムック「白洲正子 <美>の求道者」(河出書房新社)をめくっていたら、白洲氏と能楽師の友枝喜久夫氏との対談が目に入った。その一部にこうあった。
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白洲:(前略)世阿弥がおもしろいことをいってます。自分がね、お父さんの観阿弥にかなわないところが一つあるって。それは足が利きすぎることだと。達者だから、どうしてもやりすぎてしまう……。
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 これもなんだか羽生くんを彷彿とさせるところがある。結構なんでもできてしまう(もちろんそのためには努力を積み重ねているのだが)から、かえって演技全体のメリハリがききづらくなるというようなことはあるかもしれない。ただ、そのあたりのさじ加減もおそらく最近の羽生くんは体得しつつあるのではないかと思うが。
 あと、こちらも興味深い。
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友枝:(前略)稽古したように見せんで立派な舞台をすればいいんです。あまり「稽古した」「稽古した」というのじゃね。しかし、私に限らず、他の道でもそうでしょうね。稽古は大事でしょうね。それも、これ以上ないという激しい稽古をせんといかんです。
白洲:(中略)でも、先生おっしゃるように、あまり稽古したというのが見えちゃ駄目ですね。楽に見えなくちゃ駄目なんですよね。努力してるんじゃ、こっちだって困っちゃうわよ。見てるほうだってくたびれちゃう(笑)。
友枝:ええ(笑)。
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 羽生くんは「稽古」すなわち「練習」をそれこそ「血のにずむ」くらいやったりするわけで、でも試合では、ジャンプをたいへんそうではなく、楽そうに跳ぶ。難しいステップなどをつなぎに入れながら、でもいかにもがんばっている感じでなく、すっと跳ぶ。芸事である能とスポーツであるフィギュアスケートをまったく同等に考えるわけにはいかなくても、激しい稽古を積んで、しかも本番ではそれらしく見せない方が美しい、というところは通じるものがある。
 さらにこんな対話も。
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白洲:(前略)「天才とは努力し得る才だ」ということをゲーテがいっていますが、普通の人は努力しても、よくなったらもう努力しなくなっちゃいますが、天才というのは常に努力する。そして、常に難しいことを見つけてくるんです。
友枝:そうでしょうね。われわれもあまり稽古せんでも素質のある人はうまく舞っていますけれども、やはり、それは深みがないかもしれませんね。
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 この「努力し続け、常に難しいことを見つけてくる」というあり方はまさに羽生くんそのものだ。羽生くんは素質もあるのだが、努力も続けている。たしか阿部奈々美コーチが「天才だけれど、努力の仕方が天才的」というようなことを云ってなかったっけ。そしてそういう、素質だけで持っていかないことで、これからますます羽生くんのスケートには「深み」が加わってゆくのだろう。
 それから以下も興味深かった。
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友枝:(前略)能は本当に一本勝負ですからね。家庭の不和があっても駄目だし、風邪をひいても駄目です。
白洲:それは見るほうもそう。私、先生のお能の前というと酒も飲まない。風邪もひかないようにしています。だって、こちらも体力いるのよ。そういう人、私だけでなく、いっぱいいますよ。
友枝:それくらい熱心に見られるから精進してないと、怖いです。
白洲:先生、一つ舞うのにやっぱり二、三カ月欲しいとおっしゃってますものね。
友枝:ええ。
白洲:だから、それだけ違うわけよ。歌舞伎だと一カ月、毎日同じもの、できるでしょう。お能は一回こっきりで精魂つきますものね。
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 このあたりもフィギュアスケートを彷彿とさせずにはおかない。たとえば野球やサッカーだとシーズン中は結構しょっちゅう試合をしているが、フィギュアスケートはそうはいかない。グランプリシリーズからグランプリファイナルへの流れは、他のスポーツで云うところのリーグ戦から優勝決定戦の流れに似ている面もあるが、一人の選手が出場する試合は多くて三試合だ。シーズン全体を通しても試合数は多い場合で七~八試合程度だろう。それだけ一度の試合での消耗度が高いスポーツということなのだろうと思う。選手はみんなそうなのだと思うが、特に羽生くんを見ていると試合の都度「精魂つき」ている感じがする。年に数度、数分間ずつの試合でその都度精魂つきはてる。なんてピーキングの厳しい、なんて濃密なスポーツなんだろう。いや、決して他のスポーツが薄くてつまらないと云いたいわけではなく、そこはスポーツとしての単なる性質の違いということだが。能と歌舞伎にしてもどちらが優れているということでもないだろうが。
 しかし白洲氏が観る側にも体力がいると述べていることには共感する。フィギュアスケートは、特に思い入れの強い選手がいる場合は、観る方にもそれなりの覚悟と備えがいる。特に現地観戦するときには。そのことを痛感したのが2013年の福岡でのグランプリファイナルだった。このときが私の、試合としては初めての現地観戦で、ショート、フリー共に観た。そして「五輪前にパトリック・チャン選手との差をつめられればいいなあ」くらいの気持ちで観に行ったら、ショートは世界最高更新でトップ発進、フリーは世界最高ではないもののそれに近いスコアの自己ベスト大幅更新でトップ、トータルとしても優勝、というびっくりの展開で、試合初生観戦の緊張と、結果への喜び、昂奮がおそらく自分の思ったレベルを超えていたのだろう、私はその後体調を崩してしまった。あと、ソチ五輪の後も、これはテレビ観戦だったが、やはり大事な試合に対する緊張と結果に対する昂奮のせいだろう、少し体調を崩した。まあ単に私が体力なし根性なしという性質の持ち主だからということもあるだろうが。
 そういうわけで、観る側としても観る側のピーキングを心がけるようにしている。が、今回の世界選手権では見事に失敗した。まあそれだけにかまけて生活できるわけでもないから難しい。寝不足と疲れをため、軽い風邪までひいてしまった。それでも一応、男子シングルに関してはライヴストリーミングと地上波で追えたのだが、その後、よんどころない用事でばたばたしたり、その疲れでぐったりしたり、ということがあった。そういうわけで、良演技続きだったという女子フリーや、エキシビションをまだきちんと観られてない。昨夜の「キリトルTV」も観られていない。そもそも羽生くんの今回の演技をまだ落ち着いて観返せていない。どれも全部録画してあるからいいのだが、それにしてもやっぱり最初から万全な体調で観たかったものである。ちなみに上記に引用した「白洲正子 <美>の求道者」はぐだぐだに疲れて横になっているときに手近にあったので何の気なしに見返してみたのである。
 しかし友枝氏が述べているように「それくらい熱心に見られるから精進してないと、怖いです」とは羽生くんも思っているんだろうなあ、多分。

 さあ、明日は「情熱大陸」が楽しみだ。


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