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01.31
Sun
 能を観たことがない。が、能に興味はある。それはミヒャエル・エンデ氏の「エンデのメモ箱」(岩波書店)に収録された能についての短文に、こうあったからだ。
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 “ほのかな暗示”という、この演劇形式の基本要素は、観客の知性と感受性と創造的な想像力とを、当然としてあてにしている。こうして能は観客に最高の敬意を表するのだ。
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 能がそういうものなら観てみたい、と私は思ったものだ。といっても観ないまま、結構長い年月が経っているが。
 というのも、テレビドラマをあまり観る方ではないが、観ていて「そこまで台詞やナレーションで説明する必要あるのかな、くどいな」というようなことを思うことが時々あるからだ。役者の表情もそこまで作らなくてもいいんじゃないかと感じることもある。もう少しこちらの想像力にまかせてくれてもいいんじゃないか、と。
 能そのものは観ないまま現在に至るのだが、堺雅人さんのエッセイで触れられていたのをきっかけに「風姿花伝」(岩波文庫)は読んで面白いと思った。また比較的最近、白洲正子氏の「お能・老木の花」「世阿弥」(共に講談社文芸文庫)を読んでやはり非常に興味深かった。他にも白洲正子氏の書いたもので能にまつわるものを若干読んだことがある。
 それでも私の能に関する知識はしょせん生かじりなものに過ぎないが、それなりに能のイメージは形成した。能の表現とは、非常に抽象化、象徴化されたものなのだろう、というのがそのイメージである。他の演劇にはある要素が省略され(もちろん手を抜いているという意味ではない)、その分、エンデ氏の云うように、観客の知性と感受性と創造的な想像力とにゆだねられているのだ。
 そこへゆくとフィギュアスケートというのは、能よりも饒舌である。が、抽象的、象徴的な表現であるという点では、共通性があるのではないか、と私は思った。
 たとえば、フィギュアスケートで恋愛を題材にした表現が行われることはよくある。そしてスケーターはラヴシーンの「ような」身振り等はするかもしれない。が、演劇やドラマなどと違ってラヴシーン「そのもの」が直接演じられることはない。あくまで抽象的、象徴的なものにとどまっている。その分、観客はイメージをふくらませる余地があるわけだ。
 ドラマを観て「くどい」と思うことがしばしばある私が、フィギュアスケートを好きなのはそういう部分かもしれない。

 我らが羽生結弦くんは昨年、狂言師の野村萬斎さんと対談した。
 能と狂言はイコールではないが、重なり合う要素も多々あると思われる。饒舌でリアルな動作ではなく「型」を用いた抽象的、象徴的表現というところ、省略の美、緩急や抑揚、序破急、そういう和の舞台芸術の粋とも云えるものを、あの対談で、羽生くんはおそらくとても敏感に吸収したのではないかと思う。「萬斎さんのアドヴァイスを容れて、最初のポーズの左手の手のひらは“天”をあらわすべく天に向けて開くように変えた」とかいうことだけではなく、もっと本質的で深い部分でも。萬斎さんは手加減せずに伝えていたと思うし、羽生くんは「頭がぱんぱん」「すごいところに来てる」と云いつつも、しっかり食いついて自分なりに消化していたと感じた。
 おそらくそこから得たものは即効性でわかりやすく羽生くんのスケートの表現に反映されるというようなものではないかもしれない。ただ、萬斎さんと対談したことで、表現というものに対する認識の次元が変わったと思う。そのことが今後きっと羽生くんの演技に味わいと深みをもたらしてゆく。その片鱗はすでに先頃のNHK杯とGPFで見えたと云えるのではないか。
 あと、世阿弥と羽生くんのイメージは重なるところがある。そう思っている人は案外多いような気がする。

 羽生くんが、紅入りの能の女装束を着て、女面(小面か節木増あたり)を片手に持ち、それで顔を半分隠している。あたりは仄暗い。そんな写真を誰か撮ってくれないだろうか。「幽玄」と「花」とを感じさせる、ぞくぞくするような写真が撮れそうな気がするのだが。

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 ユーロ選手権でハビエル・フェルナンデス選手が四連覇した。そして300点クラブに入会したのでこれでクラブ員は羽生くんと二人だ。チームクリケットはすごい。切磋琢磨、相乗効果。羽生くんもさぞかし目を輝かせていることだろう。世界選手権が楽しみだ。
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01.27
Wed
 NHKフィギュアスペシャルエキシビションの舞台裏を取材した番組で印象的だった羽生結弦くんの言葉がある。
 「毎回毎回、被災地とか津波の被害があったところとか、通るたびにすごく思うんだけど僕の言葉なんかじゃ絶対あらわせないし、云ってみれば部外者だから、僕たちは。人の心に踏み込んじゃいけないところって絶対あるんで」
 この節度がさすがだな、と思った。
 羽生くんは自身も直接震災を経験している。四日間だけとはいえ避難所暮らしも経験している。でも、だからといって被災者の気持ちが全部わかるようなことは云わないし、云えない。そこはきっちりと節度を持った上で、トップスケーターの中では一番被災者に近い立場にいる身として、何ができるかを誠実に考える、そういうところが人としてなんだかすごく好ましいと思う。
 そして、彼と被災者の関係は、彼のファンと彼の関係に置き換えることもできる。
 ファンは、ファンだから、羽生くんのことを、心の中まで含めて、できれば本当のことをいろいろ知りたいと思っている。でもファンは、どんなに誠意を持って応援していても、やはり「部外者」なのだ。家族でも友人でもなく、近しい関係者というわけでもない。ましてや、もちろん本人ではない。だから、踏み込んではいけない領域があるのだ。実際に踏み込め得ない領域があるのだ。
 彼はメディアに向かって結構言葉を発してくれる方だし、ファンに対してもいつも誠意を見せてくれる(「花は咲く」DVDの特典映像のインタビューを観て、彼がアマチュアアスリートである自分自身の立ち位置とファンについて、いかにきっちりと、かつ誠意を持って捉えているのかということについてあらためて感じ入った)。だからそんなあれこれをもとにして、ファンは彼の人間像を描く。けれども決してそれは完璧に描ききることはないのだ。どこまでも部外者なのだから。
 そういう意識、節度を持っていたいなと思う。特に私は分析癖考察癖想像癖妄想癖があるから、彼のあれこれについてああだこうだと推定することをやめられないのだが、でもそれはどこまでも私の推定にしか過ぎない、ということをきちんとわきまえておきたいと思う。その上で、自分なりに一生懸命応援する。マナーやルールを守ることはもちろん大前提だ。
 もっとも、世の中には、ことによっては部外者の方がよく見えることもあり、そしてそれが大切なこともあるのだが、それはそれとして。

 番組の中でちょっと映った、羽生くんが支援している「モーモーハウス大槌」お取り寄せができるモーモーラスク、フレンチせんべい、どちらも取り寄せたことがある。どちらもおいしい。おすすめである。

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01.25
Mon
 L'Arc-en-Ciel、特にhydeのファンでもある。昨年末に発売されたシングル「Wings Flap」のカップリングには98年のヒット曲「HONEY」の別ヴァージョンが入っている。それを聴いていると、なんだかこんなファン目線の替え歌が出来てしまった。羽生くんのファンになったときから「honey so sweet」の部分は「HANYU so sweet」と聞こえるようになっていたけれど。

「HANYU」

ずっと見つめていた
ニースで墜ちたあの日から
今も羽生くんカレンダーは
真白な壁に飾ってある

氷に軌跡描いて
わたしを連れていって
HANYU so sweet 限りない夢を
その両手につかんで Fu

「滑ってゆく道で
少しぶつかっただけさ」
深い痛みはとれなくても
そんな身体で無茶をするのね

氷に軌跡描いて
わたしを連れていって
HANYU so sweet 信じているわ
あの報道は嘘だと

You want to jump, longin' for high score

いつでも いつでも
甘い 甘い 笑顔を見せてほしい

運命が君をつかんで
あたりは騒がしいけど
気にしないで 聴こえるでしょう
あのリンクが呼んでる

氷に軌跡描いて
わたしを連れていって
HANYU so sweet 限りない夢を
その両手につかんで

You want to jump, longin' for high score

You want to jump, longin' for high score

 別に替え歌づくりが趣味なわけではないのだが、ソチ五輪のときもなぜかふっと思いついて出来た。ショートプログラム「パリの散歩道」について。こちらは本人目線とファン目線が混在してしまったがまあ細かいことは気にしない。元ネタはナイアガラ・トライアングルの「A面で恋をして」。

「銀盤で恋をして」

銀盤で恋をして
ドヤ顔のマシンガンで
ぼくの胸撃ち抜いてよ No…

銀盤で微笑んで
ドーナツの体勢で
くるくると回るよ スピン a hey…

とびきりのシャツにスパンコール
四回転決めて
今夜君をさらいにゆくよ

銀盤で恋をして
泣けそうなパリ散の
フレーズで決めたい夜さ a hey…

カウンターからの高難度
トリプルアクセルで
今夜君を奪いにゆくよ

銀盤で恋をして
永遠の指定席に
君だけを招待するよ a hey…

エッジのインアウトも
よくわからない僕が
君に会ったらOh, Baby
もうお手上げさ

銀盤で煌めいて
長さとカッコよさで
完敗さ 君の手足に a hey…

足は「へ」の字型 ランジ決めて
夜明けまでステップ
今夜君を帰さないさ

銀盤で恋をして
ドヤ顔のマシンガンで
ぼくの胸撃ち抜いてよ No…

銀盤で恋をして Mm…
銀盤で恋をして a hey…

 一番最初に羽生くんがらみの替え歌が出来たのは、ファンになって間もない頃、初めて生で彼の姿を観た、2012年夏のプリンスアイスワールドの後くらいだったかと思う。もっとも、替え歌といっても、このときはABBA「Dancing Queen」のサビのところだけ(他は覚えていないので)、しかもqueenをprinceに、girlをboyに置き換えただけというたわいもないものであった。でもなんというか、そのサビのところのキラキラ感が、踊る羽生くん(プリンスアイスワールドでの演目は"Hello, I love you"だった)にぴったりな感じがしたのだ。

You are the dancing prince
Young and sweet, only seventeen
Dancing prince
Feel the beat from the tambourine, oh yeah

You can dance, you can jive
Having the time of your life
Woo, see that boy, watch that scene
Dig in the dancing prince

<和訳>
君はダンシング・プリンス
若くて可愛くてまだ十七歳
ダンシング・プリンス
タンバリンのビートを感じて

君は踊れる、スウィングできる
君が人生の時
あの少年を見て、あの光景を見て
ダンシング・プリンスに夢中になってごらんなさい

 和訳は、昔家にあった「Dancing Queen」のシングルレコードの歌詞カードに載っていた和訳を漠然と思い出して参考にしつつ書いた。最後のdig inはいろいろな訳し方があるようだが、私が見た歌詞カードでは多分こんな感じだったと思う。
 当時の羽生くんはyoungでsweetでonly seventeenだった。私がプリンスアイスワールドに行く決心をしたのは「羽生くんを十七歳のうちに生で一度は観ておきたい」というわけのわからない動機からだった。

 そして羽生くんのtime of your life「君が人生の時」は今も続いていて、まだ終わりそうもない。




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01.23
Sat
 羽生結弦くんにはまって以来、それまでは見たことのなかったフィギュアスケートのプロトコル(採点表)というものを見るようになった。得点の構造もだいたいわかった。知っている人は知っている話だが一応ざっくり繰り返しておくと、フィギュアスケートの点数は技術点と演技構成点に分けられる。技術点はジャンプやスピンやステップといった技ごとに基礎点が決まっている。実際の採点では、この基礎点に出来栄え点すなわちGOEが差し引きされる。GOEは9人の審判が-3から+3まで一点刻みでつける。とてもよくできたら+3、全然ダメだったら-3だ。最高点と最低点の人をカットした残り7人の平均点がGOEに換算される。演技構成点は、スケーティング技術、つなぎ、演技遂行、振り付け、曲の解釈の五項目について、やはり9人のジャッジが10点を満点として0.25点刻みでつける。これも最高点と最低点をのぞいた平均が演技構成点に換算される。
 さて、私がプロトコルを見ていていつも気になってしまうのはGOEの部分だ。GOEが-3から+3まででつけられる、ということはテレビのスポーツコーナーの報道でもよく云われている。しかし、そのジャッジの平均点がそのままGOEになるわけではない、ということまではなかなか言及されない。
 ジャッジがつけたGOEの平均値が、そのまま採点表上のGOEになるのは、シングルスケーティングではトリプルアクセルだけだ(多分)。Wikipediaの「フィギュアスケートの採点方法」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E6%8E%A1%E7%82%B9%E6%B3%95
などを見てもらえばわかるのだが、技ごとにジャッジの平均点が◯点だったらGOEは△点というように、換算の規則があるのだ。たとえばスピン類は、ジャッジのつけた値が+3であればGOEは+1.5になる。では-3のときは-1.5かというとそうではなくなぜか-0.9だ。とにかくなにやら素人にはよくわからない規則で換算方法が決まっているのである。ちなみに、一番最近の改正で、4回転ジャンプについてジャッジが-3をつけたとき、実際のGOEの減点幅は従来-3だったのが-4に変更された。4回転がハイリスクなジャンプになったのである。いずれにしても規則が単純ではないため、テレビなどではこの点に関してなかなか言及がないのだろう。
 しかし何にせよ、プロトコル上では、この換算規則がわからない。ジャッジがそれぞれ何点をつけたのかはわかるが、それの最高と最低を切り捨てて平均したものと、GOEの欄に載っている数値は多くの技で一致しないのだ。よってGOEの数値だけ見ても、これがジャッジにすごく評価されたのかそうでないのかは比較的わかりにくい。
 だから思う。GOEの横にカッコでもつけて、ジャッジのつけた値の平均値をそのまま載せてくれないだろうか。これが3に近ければ「すごかったんだ」-3に近ければ「ダメだったんだ」とわかりやすいではないか。さらに云えば、それがあれば、どの技でどういうふうにGOEの値が換算されているのかということもイメージがつかみやすくなるではないか。
gpf1516_Men_FS_Scores_0001.jpg
 もっとも、素人でそこまで突っ込みたい人はあまりいないのかもしれないし、専門家はそんなものがなくても自力でわかるのだろう。各ジャッジの出した点数は明示されているのだから自分で計算しろと云われればそれまででもある。だから需要は少ないかもしれないけれど。

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01.19
Tue
 というのは私が長らくファンである佐野元春氏が以前TDKのカセットテープのコマーシャルに出たときのキャッチコピーだ。
 前の記事で、私は羽生結弦くんが憑依型か自力型かで分類するなら自力型である、ただし憑依型的なところも少しある、ということを書いた。それはどういうところかと思っているかについて。
 憑依型になるには羽生くんの自我は強すぎるというようなことを書いたが、その羽生くんの強い自我をものともせず羽生くんの内部に侵入するものがある。それは音楽だ。演目のテーマや物語性やキャラクター性としての音楽ではない。あくまで音とそのつらなりとしての音楽である。
 羽生くんの音感がすぐれているということはかなりいろいろな方が云っていることではないだろうか。少し前テレビでフィギュアスケートの音楽を編集される方が、普通の人なら気づかないようなノイズに羽生くんは気づいてそれを除去してほしいと云ってきたという話をされていたかと思う。イヤフォンについても強烈なこだわりを持ち、多数のイヤフォンを持ち歩いて性質によって使い分けていたりするという。また会場の音響にも敏感だ。
 本人も、たとえば野村萬斎さんとの対談で「音楽を聴きすぎてしまってジャンプのタイミングがうまくゆかないことがある」といったことを話していたかと思うし、バラード第一番を振り付けしたジェフリー・バトル氏もこの発言を裏付けするようなことを何かの雑誌で述べていたと記憶する。
 とにかく、音感が人並みはずれて敏感なのだと思う。音、およびそのつならりとしての音楽が生み出すリズムやテンポ、抑揚などを無視できないのだ。だからだと思うが、羽生くんの演技は、音とのシンクロ感が観ていてとても心地よい。たとえば「オペラ座の怪人」に関して云えば「ファントムらしいか」という点については私は留保をつけざるを得ないのだが、ひとつひとつのエレメントと音楽のシンクロ感はすばらしかったと思っている。本人も「音と動作をシンクロさせたい」という意識は強いだろう。というより多分「音と動作がシンクロしないととても気持ち悪い」のだ。音感がよすぎるゆえに。
 ただ、フィギュアスケートの技術が求めるタイミングと、音楽の要求するタイミングが必ずしも一致するとは限らない。これは私だけの見解ではないと思うのだが、バラード第一番の以前のヴァージョンで、3Lz3Tがどうしてもうまくゆかなかったのは、ジャンプ技術が求めるタイミングと、音楽が羽生くんに要求してくるタイミングがどうしても折り合いがつかなかったのかもしれないという気もした(個人的には、あのへんの音楽の流れは「おらおら跳べ跳べ」と圧をかけてくる印象がある)。ただ、バラード第一番については、だからといってプログラム構成の難度を下げるのではなく、逆に上げて、構成もかなり変えて、なおかつ音楽とのシンクロをきっちりと達成してきたから畏れ入るばかりなのだが。
 羽生くんの演技と音楽とのシンクロ感のすばらしさについては、素人の私が感じるだけでなく、ジャッジの方もワールドフィギュアスケート72号で絶賛しておられたから、多分それだけの値があるものなのだろう。羽生くん自身は、テーマがはっきりしていたり物語性があったり感情をのせやすい演目の方がとりつきやすいと感じているようだが、バラード第一番のように「音楽そのもの」を演じるしかない演目の方が、ある意味羽生くんの強さ、良さが純粋な形で際立つかもしれないという気もしている。「パリの散歩道」もどちらかといえばテーマや物語性というものとは縁が薄い演目だったと思うが、音楽そのものにうまく乗って演じていたと思うし。まあ「パリ散」の場合は彼の強い自我がうまいぐあいに小気味よさというスパイスになって出ていたという面もあるかと思うが。
 ここのところの羽生くんは、ざっくり云えばショートが「音楽性」フリーが「ドラマ性」といった感じの演目が続いているかと思う。曲の長さからいってそうなりやすい面もあるだろうが、思い切ってフリーで「音楽性」の演目に挑戦してみてほしい気もするのだ。たとえば高橋大輔くんの「ブルース・フォー・クルック」が私は非常に印象に残っている。あれと同じタイプの音楽を演じろという意味ではないが、あのくらい「音楽」自体を真っ向から演じる演目を、フリーで演じきることも、音感がすぐれているからこそ可能なのではないか、観てみたい、と思ってしまうのだ。

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01.17
Sun
 前の記事に書いたように私は堺雅人さんのファンでもある。以前「情熱大陸」が堺さんをとりあげたときに、役者の「憑依型」「自力型」という概念というか分類法が出てきた。番組中で、堺さんと池田鉄洋さんの会話が出てきて、池田さんが堺さんに「堺くんは憑依型じゃないよね」と云っていたかと思う。堺さん自身も自分を自力型と見なしていたと思う。
 憑依型というのは文字通り、役が自分に憑依したような感じで演じる役者のことを云うのだろう。それに対して自力型は、自分で「役作り」をして役にアプローチしてゆくタイプの役者のことを云うのだろう。役者でなくても、他のジャンルにもこの二分法は結構応用できると思う。芸術や文学にかかわるたいていの人には使える概念ではないか。
 そして、フィギュアスケートの表現にも応用可能だと思う。「羽生くんは憑依型」といった言説もネットで何度か見かけたことがある。演技によっては鬼神のような表情を見せていたりなどするところからそう云われるのだと思う。
 しかし、これはあくまで私個人の推測だが、羽生くんは憑依型ではなく自力型だと思う。羽生結弦という人物には言動のはしばしから非常に強い自我を感じる。憑依型はどちらかというと自我を解放して役どころを自分の中に流れ込ませるという感じだと思うのだが、羽生くんの自我は強すぎるがゆえに、役を憑依させるために解放するというのはなかなか難しい気がする。役を自分に取り憑かせるのではなくどちらかというとその強い自我をもって、自分の方から演じる役柄にアプローチしているという感じだと思う。それにしても徹底して役作りをするのはあまり得意ではないかもしれない。強すぎる自我のゆえに。
 たとえば「オペラ座の怪人」を演じるにあたって羽生くんは「ファントムになりきりたいと思います」といった云い方はしなかった。「僕なりのファントムを演じたいと思います」だった。最近も「自分の感情が演技に出てもいいと思う」といった発言があったかと思う。実際、憑依型であれば、クリスティーヌに向かって「バイバイ」にはならない気がする。SEIMEIのフリーで、最後のルッツを決めてガッツポーズもしないと思う。
 「自分は何かのテーマを伝えるのは下手だと思う。振付の人やコーチなどからも、自分の中に入り過ぎるとよく言われるので」(モーターマガジンムック「銀盤の騎士たち」より)という発言もある。これは本人も憑依型ではないということを自覚しているあらわれとみることもできるかもしれない。
 逆に自力型であることが活きることもある。数々のエキシビションナンバーで羽生くんが情感溢れる演技を見せるのは、それらの演目だと、そのときどきの羽生くん自身の感情が非常に音楽に乗せやすいからだと思われる。
 憑依型か自力型かというのはもちろん優劣の問題ではない。それに、自分がどちらになるかというのはおそらく選べることでもない。多分どの分野でも憑依型は少ないのではないかという気はする(上記「情熱大陸」で憑依型かも、として名前が出てきたのは松山ケンイチさんだった)。フィギュアスケーターで、あの人は憑依型かもと思う人もいないではないが、その人をつぶさに観察したことはないのでちょっと確信を持っては云えない。
 憑依型は憑依型にしかできないような圧倒的な世界を見せることもあるが、自力型は自力型なりに辿りつける境地というものはあると私は考えている。羽生くんも日々いろいろなことを感じ考えて、それがまた表現に何らかの形で活きてくるだろう。そういう意味では先日の野村萬斎さんとの対談はやはり大きかったのではないかと思う。そのあたりについてはいずれまた別記事にしたいと思っている。また、羽生くんが100%の自力型かというと、微妙に違うというか、ある点では憑依型に似た性質を持っているところもあると感じる。それについてもまた別記事にしたいと思っている。

 私自身も、アマチュアとして言語表現活動を若干行っているが、やはり自力型である。自我を解放して降り来る言霊に身をゆだね、などという状態になったことは全くない。自我のスコップで、言葉のありかを探してガツガツと地面を掘っているイメージである。このブログも「羽生くんが好きでしょうがない」という自我のスコップで、ガツガツ掘って書いている。

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01.13
Wed
 2004年の大河ドラマ「新選組!」以来堺雅人さんのファンである。私のまわりの一部の人たちの私に対する認識は今「羽生くんが好きすぎて頭がおかしい人」だと思うが、その前は多分「堺さんが好きすぎて頭がおかしい人」だったはずだ。堺さんと羽生くんには「ニコッ」と「キリッ」のギャップが大きいなどの共通点もあると思っている(早稲田大という共通点もある)。そんな私は、昨年末の紅白の審査員に二人とも選ばれたこと、さらに当日、二人の席が横並びだったことでもちろん狂喜乱舞であった。
 そういうわけで、当日の羽生くんの言動のあれこれだの、いでたちだのに私ももちろんいちいち着目していたが、正直なところ一番気になったのは堺さんとどんな話をしただろう?ということであった。隣どうしだったから全然話さなかったということはおそらくあるまい。ダースベイダーを陰陽師ポーズで祓った後などは二人で談笑しているような様子も見えた気がする。知りたい。どんな話をしたのか知りたい。堺さんが連載しているCREAあたりで言及してくれないだろうか。
 ただ、話はしただろうが、状況から考えて、ゆっくりたくさん話をしたとは考えづらい。できれば、この二人にはじっくりと対談してほしいなあと思ってしまう。
 野村萬斎×羽生結弦の対談も素晴らしかったが、堺さんと羽生くんが対談しても、結構実り多いものになりそうな気がするのである。表現という共通の土壌はあるし、二人とも言語能力が高い。そして羽生くんはan・anで自分を表す漢字一文字として「紡」を挙げ、それについて「さまざまな事を考えて、いろんな視点からたくさんの考えを紡いでいきたいから。」とコメントしている。実際フィギュアスケートを通して、いろんなことをたくさん考えてきたと思う。堺さんは、エッセイを読むと特によくわかるのだが、役を演じることを通じて、本当にいろんなことをユニークな視点で考えている人だ。だから、この二人が話すと、それはそれなりに面白い化学反応が起きそうな気がするのだ。そしてそれは、直接的な形でかどうかは別として、羽生くんの演技に何かしら、活きてくるような気がするのだ。
 ああ、実現させたい。この二人の対談。私が仲介したいくらいだ。どちらにもつてはないけれど。
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01.11
Mon
 羽生結弦選手のファンになって四年くらいが経った。ファンとしての心理はおおまかに二つに分かれるなと思っている。
 一つはもちろんリアルなアスリートである羽生くんを応援しリアルな人間である羽生くんをリスペクトするというもの。それがもちろん基本でもある。
 だがしかし、もう一つの心理も抑えがたくある。羽生くんの存在から、いろいろとイメージだの想像だの妄想だのひろげてしまう心理だ。そしてともすればそれを表現してしまう心理だ。
 羽生くんのファンには、この後者の心理が強いタイプの人がかなりいるような気がする。現に(つぶさにそれらをチェックしている訳ではないが)ネット上には彼のイラストだのコラージュだのMADだのアニメだの、あるいは手作りグッズやキャラ弁の写真だのがあふれている。もちろんブログやツイッターやその他で言葉でファン心理のあれこれを表現している人も多い。
 それはもちろん、羽生結弦という存在が、そういう表現を引き出してしまうような魅力にあふれているからということが一つにはあるであろう。また、そういう表現をしたがるタイプが羽生くんのファンになりやすいということもあると思われる。おそらくその両方であろう。
 さて、かくいう私も表現したがりである。そして私の表現手段は主として言葉である。これまでも某SNSの日記やつぶやきなどで羽生くんファンとしてのあれこれを綴ってはきたが、何かもう少しまとまった形で記しておく場がほしくなったので、このブログを立ち上げた次第である。時々、思い立ったときに羽生くんをめぐって思ったり考えたり想像したり妄想したりしたことなどをつらつらと書いてゆこうと思う。

 ところで、最初に書いた、リアルなアスリートである羽生くんを応援しリアルな人間である羽生くんをリスペクトする心理と、羽生くんの存在からあれやらこれやらを表現する心理とは、もちろん完全に分離したものではない。両者はグラデーションしながら密接不可分につながっているというのがおそらく正しいと思っている。
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