07.23
Sun
 すでにもちろん羽生くんの写真集は出ているのだが、ソチ五輪より前、いずれ羽生くんの写真集が出る日が来るのではないかと思った私は、いろいろ妄想した。いやもちろん、実際の写真集がそうなったように、羽生くんの写真集というのは演技中の写真を軸に、演技前後の様子や練習風景、若干のオフショットを加えたものになるだろうとは思っていたし、それで十分なわけである。しかし羽生くんという素材があまりにも美味しすぎるので、仮に、芸能人の写真集にあるように、スタジオやロケで何らかの設定で撮影した写真集を作れるとしたらどんなのがいいかという妄想をしたわけである。実際にはアスリートである羽生くんに余計な負担がかかるからそういうことはできないが、妄想は自由だから。
 そういう写真集を作る場合、どういう方向性で行くか。たとえば「週末仙台」みたいに妄想デート誘発系の写真を並べるというのもありだろう。羽生くんにあんな格好、こんな格好、とっかえひっかえ着せてみせて撮るというのもありだろう。その場合、ファッション雑誌系の着せ替えも、コスプレ系の着せ替えもあり得るだろう。いっそヌード写真で、というご意見の方もおられることだろう。ヌードまでいかなくとも、羽生くんの肉体の魅力に徹底的に焦点を当てるという撮り方も可能であろう。いろいろ考えられるが、私は、羽生くんの存在感をうまく活かしつつ、背景や一緒に撮るものとの組み合わせでアートな感じになるような写真で構成したいと考えた。で、以前考えて某SNSに書いたものとかその後に考えたものとかざっくり列挙する。コラ画像づくりやイラストの能力があればよかったのだが、私はそういう能力がないし面倒くさがりなので、頭の中でイメージするだけ。以下、服装に関しては特に指定したもの以外は、羽生くんの体型や肌の美しさが自然と引き立つような、シンプルなTシャツやシャツなどとジーンズといった感じでいいと思う。
・真っ白なスタジオで抽象的なオブジェと一緒に撮る。
・デザイン性の高い椅子に坐らせて撮る。
・シュールレアリズムの絵画のような構図を作って撮る。
・大正浪漫風の小粋な少年紳士といった感じ。レトロな背景で、ツイードの上着とチョッキ、ズボンは膝下くらいのニッカボッカーズで、ネクタイをして帽子もかぶせて、といった感じ。
・天体と組み合わせる。実際の天体写真とのCG合成でもいいし、いかにも作り物っぽい天体のセットと撮るのも面白そう。天文台やプラネタリウムで撮るのもよいかも。
・SF風というか未来風というか、無機質な感じの背景で撮る。
・廃墟、もしくは廃墟風のセットで撮る。
・神秘的な神殿みたいな雰囲気のところで撮る。
・サーカスのテントみたいなセットで撮る。あえて曲芸師ではなく道化師のコスチュームで、頬に涙形を描いて。
・観覧車やメリーゴーラウンドと一緒に撮る。
・湖の岸辺で、湖面のきらめきを背景に羽生くんのシルエットが浮かびあがる感じで撮る。
・葉が落ちて、きれいな枝の形が見えている冬木立と一緒に撮る。
・灯台で撮る。
・此の世の果てみたいな、荒涼とした風景のところで撮る。
・「秘密の庭」とか「秘密の小径」みたいな雰囲気の場所で撮る。
・鉄条網が張られた「危険地帯」みたいな感じのところで撮る。
・黄昏の窓辺に凭れさせて撮る。
・籐椅子でまどんでいるところを撮る。
・猫と撮る。猫は黒猫。あえて羽生くんが猫を抱えているところではなく、空間にオブジェのように羽生くんと猫を配置する感じ。
・虹やオーロラと組み合わせる。CG合成か。
・レトロな鳥籠と一緒に撮る。
・アンティークの硝子壜と一緒に撮る。
・百葉箱と一緒に撮る。
・実験器具類と一緒に撮る。
・鉱物標本と一緒に撮る。
・ろうそくの灯った燭台と一緒に撮る。
・金魚鉢と一緒に撮る。中に入れる金魚は古典的な赤い金魚。
・羽生くんと組み合わせて撮ってみたい花はいろいろある。薔薇、菫、白いカラー、アガパンサス、矢車菊、アイリス、朝顔、桔梗、りんどう、萩、スウィートピー、鈴蘭、などなど。
・難しそうだが、羽黒蜻蛉や螢と撮ってみたい。
・和のテイストでも撮りたい。以前「能とフィギュアスケートと羽生結弦選手」という記事に「羽生くんが、紅入りの能の女装束を着て、女面(小面か節木増あたり)を片手に持ち、それで顔を半分隠している。あたりは仄暗い。そんな写真を誰か撮ってくれないだろうか。「幽玄」と「花」とを感じさせる、ぞくぞくするような写真が撮れそうな気がするのだが」と書いたのだが、そんな感じのをぜひ入れたい。実は以前某SNSに書いたとき「平安時代の陰陽師風とかいいかも」みたいな案も入れていたのだが、これはある意味実現してしまった。
・腕のいいデザイナーさんに、前衛的というかシュールというか、不思議なカッティングの服を作ってもらって着せて撮る。
・スカートをはかせて撮る。「女装させる」というイメージではなく「男子なんだけどボトムだけがなぜかスカート」という感じ。やや透ける感じのやわらかい生地でマキシ丈のスカート。
・私はヌードを撮りたいとは思わないのだが、裸体と思われる羽生くんが大きな布にくるまっていて、でも見えるのは肩先から上とつま先だけ、みたいな写真はいいかもしれない。布の色は白と黒の二つのヴァージョンを撮るとか。
 多分考えればまだいろいろ出てきそう。しかし自分が羽生くんを撮れるカメラマンになれるかというと、カメラを扱う能力の問題は別としても全く自信がない。写真を撮ること自体はわりと好きだが人物は苦手でめったに撮らないし、ましてや羽生くん相手だと畏れ多くてシャッターを切る手が震えてだめだろう。その上表情やポーズなどの注文をつけたりとかとてもじゃないけれどできそうもない。羽生くんの写真を撮るなら、ものすごーく性能のいい望遠カメラを手に入れて、本人の気づいていない遠くからこっそりと、じゃないと無理だろうなあ(それでは隠し撮りじゃないか)。

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 ファンタジーオンアイス新潟でのアンコールのパリの散歩道、なんだかメロウな感じでよかった。以前は小生意気な少年がめいっぱいカッコつけているという雰囲気でそれはそれで味があったけれど、今はなんというかこなれて余裕で観客をちょっともてあそんでいるような感じ。羽生くんも確実に大人になっているのだな。

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 ベースボール・マガジン社の、吉田年伸さんについての記事も面白かった。あのヴァーティゴの腰振りが吉田さんのアイディアだったとは!しかし「取材抜きという場だったので紹介できない話」をむしろものすごく知りたい。むむむ。


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07.19
Wed
 少し前だが、音楽デザイナー矢野桂一さんがフィギュアスケート音楽について語った記事(前編後編)はとても面白かった。特に印象的だったのはHope & Legacyについてのエピソード。久石譲さんから曲使用の許可がなかなか下りなかったとのこと。そりゃ「そっちの都合でオレの曲を勝手に切り貼りするなーっ」って思われても仕方のないことだ。しかしそこをなんとか特例で許可してもらえて本当によかったな、と感じた。羽生くんももちろんそのプロセスは知っているだろうから、そうやってどうにか使わせてもらえることになったその曲で、結果を出したい、という思いは一層強かったかもしれない。「抽象的で評価されにくい」というような評判を聞いたときは、こちらが思っている以上に辛かったかもしれない。
 だから、世界選手権でノーミスを達成して優勝、世界最高点更新できて本当によかった、とあらためて思った。羽生くんには、これで久石さんにも面目が立つ、とほっとした思いもきっとあったんじゃないだろうか。
 Hope & Legacyについては、Ice Jewels vol.6でオーサーコーチが「ファンもメディアも関係者も、あの日あのプログラムを初めて理解したと思う」といったことを述べているのも印象的だった。自分もこれが羽生くんに本当にふさわしい作品なのか疑問に思ったこともあったと。「でもユヅにはわかっていたのでしょう」と、オーサー氏でさえある意味本当の全貌をつかみきれていなかったHope & Legacy。私も、だいたいのイメージとしては羽生くんのやりたいことを理解していたつもりだったけれど、世界選手権のあの演技は「それ以上」だったと思う。
 Hope & Legacyで、羽生くんが「これがしたかったんだ」という演技ができて、本当によかった。羽生くんが、自分の選んだ曲を信じて、その曲にふさわしい表現ができるはずという自分の力を信じて、あきらめずに挑んだことが実を結んで、本当によかった。その曲を生み出してくれて、そして使用を許可してくれた久石さんにもお礼を云いたい。

 矢野さんが羽生くんについて「音楽へのこだわりがめちゃくちゃ強い上に、時々とんでもないことを云い出すんだからもー」みたいな感じなのもなんだか微笑ましい。羽生くんは自分が演じる曲のアレンジにしろ、アイスショーの演出にしろ「こうしたらいいんじゃないかな」と思いついてしまったら止められない性格なんだろう。それだけ羽生くん自身がクリエイティヴな力を持っているということにも感心させられるし、それを受け止めて実現につなげてくれる矢野さんや関係者の方々にもあらためて感謝したい。

 矢野さんは後継者を探しているそうで、無良くんの名を挙げているが、羽生くんも音楽好きだし凝り性だし、やりたいかどうかは別として、能力的にはなろうと思えばなれるだろうという気がする。ただ、羽生くんだと、いろいろなスケーターのための音楽を編集しているうちに「オレだったらここをこういうふうにしたいなあ、ここでこういうジャンプを入れて、このへんでこういうステップを入れて……ていうかいっそオレが演じたいわ!」とかなりそうな気がしないでもない。

 矢野さんの記事の最後のあたりでスケーターや関係者への希望が述べられている。「“自分がこの曲を表現したい”という気持ちで選曲にも拘ってほしい」「たくさん聞き込んで、自分の物にして、そして演技に臨んでほしい」「作者の意図に左右されないまでも、“自分なりのストーリー”を創り出してほしい」この希望をすでに実現できているのが羽生くんだと思う。そして「原曲は大事に」というところも。そういう思いがあるからこそ、以前の記事でとりあげた「曲自体に喜んでいただけるような」という発言も出てくるのだろう。

 そんなふうに、原曲へのリスペクト、自分なりの創造性、両方を豊かに持っている羽生くんが、今季のフリーでは果たしてどんな曲で、どんな演技を見せてくれるのか。それを考えると夜も眠れない。というのは嘘で、ちゃんと眠っているけれど。


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07.17
Mon
 今年もちょうど今日まで、プリンスアイスワールド東京公演がダイドードリンコアイスアリーナで行われているかと思う。私が初めて生で羽生くんを見たのは、五年前、同じ場所での7月15日公演(昼の部)であった。その春にニースロミオで羽生くんに決定的に墜ちた私は「羽生くんが17歳のうちに一度は生で観ておきたい!」というわけのわからない衝動を起こし、それでアイスショーの予定を調べてチケットを取ったのだった。前にもちょっと書いたが、その時の私は、その数年前から云ってみれば人生最悪のぐだぐだ期に入っており「泊まりがけでどこか出かけるような気力なんてないわ」という状態がずっと続いていたのだが「羽生くんを生で観たい」という衝動がその状態のいわば突破口になってくれたのだった。運良く、その当時、やっぱり羽生くんが好きで「一緒に行ってもいいよ」という昔からの友人が東京に住んでいたので、泊めてもらって一緒に行くことにして、本当に何年ぶりかの外泊つき外出をこなすことができたのだった。羽生くんを知った頃は、最悪のぐだぐだ状態からのごくごくゆるやかな回復期にあったのだが、ファンになってから、その回復基調がはっきりして今に至ると思う。ありがとう羽生くん。

 初めての生羽生くんは、キラッキラしていた。
 演目が「Hello, I love you」だったので、銀色のジャケットが文字通りキラキラしていたというのもあるんだけれど、もちろんそれだけじゃなくて、存在感そのものがキラッキラしていた。もう五年前のことだし、生で観るとテンション上がりすぎで記憶が飛ぶ私だし、このときは初めてでテンションの上がりっぷりも多分半端じゃなかったということもあって本当に断片的な印象しか残っていないのだが、ジャンプは、生で観るとテレビより一層、シャープでしゅるるっ、と銀の火花が飛ぶようなイメージだったのを何となく覚えている。たしか3Aが目の前だったし。
 このときの羽生くんは、まだ目立つ実績が「世界選手権三位」しかなかったこともあって、プログラム順は「一部のトリ」だった。もちろん羽生くんをとにかく観たくて行ったのだけれど、フィギュアスケートそのものも生では初めてということもあって、他の出演者の方々やプリンスアイスワールドチームの演技もわくわく楽しめた。当時はまだ八木沼純子さんや太田由希奈さんも出ていた。プルシェンコ様や高橋くんという、男子シングル界でそれまでずっと私を楽しませてくれてきたメンツも同じ機会に一緒に観られてとても嬉しかった。
 しかし羽生くんが演技と別の面で圧巻だったのは、終演後の「ふれあいタイム」の時だった。プリンスアイスワールド名物、ふれあいタイム。出演者が場内を回って、観客と直接会話したりプレゼントをもらったりという時間。で、高橋くんの出演発表が公演日直前だったこともあってか、どうやらこの東京公演は、羽生くん目当ての観客がとても多かったようで。ふれあいタイムでの羽生くんの進み方が遅いこと遅いこと。私の席は周回の最後のあたりだったのだが、確か羽生くんが近くに来るまで一時間くらい待ったと思う。それだけ羽生くんは、たくさんの人から呼び止められたり写真を撮られたりプレゼントをもらったりしていたのだった。羽生くんはプレゼントを受け取り、持ちきれないほどたまるとスタッフさんが持ってきた籠にそれを移し、また受けとって、またたまると籠に移し、とそれを何度となくやっていた。友人と「あれだけで結構疲れるよね」と話しながら見ていた。しかも羽生くんはわりといちいち丁寧に、観客からのポーズ要求などに応えていたので余計に時間がかかるみたいだった。私はエキサイティングシートは残念ながら取れていなかったので、直接ふれあうことはできないな、と思ってちょっと後方からふれあいタイムの様子を眺めていた。ふれあうことはできなくても、比較的近くから羽生くんを見ることができたし、ブレブレだったけれどちょっとだけ写真も撮れたので嬉しかった。
 ただ、後から、エキサイティングシート以外でもその気になればふれあいに加わることも可能だったようなということを知ってちょっともやもやした。そのへん、特に案内もなかったし、ネット上某所でもそのあたりがわかりにくかったという声を目にした。
 とはいえ、さらに後から、結果的に無理にふれあいに入り込まなくてよかったな、と思うことになった。というのは、やはりネット上某所で、おそらくふれあいタイムに間近で参加した方々からだと思うのだが「羽生くんがふれあいタイムで疲れすぎててかわいそうだった」という声が続々あがっていたのだった。もちろん、節度を持って臨んだ方も多いと思うが、写真を撮るためにいろいろとポーズを要求したりたくさん話しかけたりしてひきとめていたような方々もいたようである。確かに「出演者を引き留めての写真撮影はおやめください」というようなアナウンスは繰り返しかかっていた。でも羽生くんは性格上、求められたら断り切れない、かわしきれないみたいなところがあるのだと思う。それで私は、私がふれあいに入り込まなかったことで、羽生くんの負担を何千分の一かでも減らすことができたのなら、それはそれでよかったのだと思うことにした。そして私は自分が将来、ふれあいに参加する機会を得ても、手短に感謝を述べるだけにとどめる、プレゼントは軽くて負担のないものにする、と心に誓ったのだった。まあ性格上、多分あがってしまって、たくさん話したりポーズを要求したりとかそもそもできそうもないけれど。
 しかし結局、羽生くんがプリンスアイスワールドに出たのはこの後は、2014年の八戸公演に一度だけではなかったか。私はそれには行けなかったし、私の「もしふれあいに参加する機会があっても羽生くんに負担をかけない」という誓いはどうやら無駄になりそうである。もう今の羽生くんがふれあいタイムに登場したら、それこそ死人が出そうである。たとえば町田くんみたいにあらかじめ「プレゼント等お断り」などを徹底しておくとかでないと、たいへんなことになるだろう。

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 羽織袴姿の羽生くんが載った仙台市のポスターが美しい。「たたずまい」という言葉が似合ってしまう22歳男子。政令市には配られるということらしいが福岡市で貼り出されるとすればどこだろうか。情報が手に入って、見に行けるようだったら見に行きたいものである。
 羽生くんがはいているのが「仙台平の袴」とのこと。「せんだいひらのはかま」という言葉には耳なじみがある。羽生くんとはまったく関係のない話だが。私の母方の祖父母と叔母(母の妹)の一人は、第二次大戦で空襲に巻き込まれて東京で亡くなったのだが、その祖父は仙台の出身で、遺品の中に仙台平の袴があったそうである。そして戦後、私の伯母(母の姉)が病気になったとき治療費を捻出するためにその袴を手放したそうだ。でもそれで伯母の助けになるならば、死んだ祖父も喜んでいるだろうと、その母、つまり私にとっての曾祖母は話したそうである。ちなみにその曾祖母は羽生くんの出身地である七北田に里子に出されていた経験があり、私の初仙台行きは、その曾祖母の葬式であった。ただし二歳の時なので何も覚えていないのだが。まあとにかく、私は呉服関係のことは全くわからないのだが、そういうわけで「仙台平の袴」というのはいいものなのだということを漠然と知っていた。それで羽生くんのポスター画像を目にして「これが仙台平の袴」と改めて認識したりしたわけなのだった。


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07.13
Thu
 なんだか触れておきたいと思っている雑誌やネットの記事がだいぶ前からいろいろあるような気がしていて、でも私はどんどん量をこなして書いていけるタイプじゃないのであわあわしているうちに、時間がどんどん過ぎてゆく。そんな中で今日はとりあえずこの「スポーツ写真家・高須力が描く『フィギュアスケート写真』の世界」について。
 私は羽生くんを撮っているカメラマンさんたちについてつぶさに「このひとはこんな写真を撮る」というのを認識しているわけではないのだけれど、高須さんの羽生くん写真はなんかいいなあと思う確率が高いような気がしていて。この記事に載っている写真は『Number』誌だけれど、私は『フィギュアスケートファン』誌も結構写真のチョイスがいいなあと思って買っていて、そこにも高須さんの写真が結構多いのだ。ついでに云うと、この高須さんについての記事を書いたいとうやまねさんの文章が載っているところも『フィギュアスケートファン』誌の魅力の一つ。回し者ではない。
 で、今回の高須さんの発言を読んで「他のカメラマンと違う瞬間を狙う」というこだわりがあると知って、なんとなくなるほど、と思った次第である。高須さんの写真にはどことなくエッジィなものを感じていたような気がするので。
 そういうわけで、高須さんの写真展がキヤノンギャラリー福岡にも来るみたいなので、行けたら行ってみようかと思う。「写真展には有名選手や有名なシーンはほとんどありません。」とのことなので羽生くんの写真が見られるという期待はできないだろうが。

 で、この記事の本題は高須さんじゃなくて高須さんが表現した羽生くんについてなのだった。高須さんは下記のように語っている。
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羽生選手の場合は、自分で自分をコントロールしているイメージがあります。自分自身にあそこまで入り込める人って、そういないですよね。
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 多分、私もこのブログで「羽生くんは自我が強い」みたいな記述は何度も書いているかと思う。羽生くんからは、自意識がものすごく張りめぐらされているというような感じを受ける。さらに細かく云えば、あくまで私の印象だが「自分はこういう人だ(過去・現在)」「自分はこういう人でありたい(未来)」「自分はこういうふうに見られている(過去・現在)」「自分はこういうふうに期待されている(未来)」について膨大な情報が緻密なネットワークを作っている感じ。そしてそのネットワークを随時参照しながら、緻密なコンピュータがその都度その都度状況に合わせて「今このときにふさわしい羽生結弦」の最適解を瞬時に導き出している感じ。
 もちろん、羽生くんでなくても、人は普通、ある程度の年齢になれば意識的にであれ無意識的にであれ、その場その場にふさわしい自分になることくらいはそこそこやっている。仕事モードの自分、家庭モードの自分、友だちといるモードの自分、などなど。でも羽生くんの場合、そういうモード切替に使うために参照する自分についての情報量と、そのモードの使い分け力が半端じゃない、という感じがするのだ。また、そのモードの数も、勝負師モード、可愛いモード、クレヴァーモード、カッコいいモード、綺麗モード……などなど、多分平均よりはずっと多彩で、しかも「○○モード」という言葉では簡単にはくくりきれないくらい繊細微妙なグラデーションがある気がする。さらに云えば、多くの人は「この場では本当はこういう自分になれたらいいんだろうけれど、うまくできないな」ということも往々にしてあるのではないかと思うが、そのあたり羽生くんは「この場ではこういう自分で」と思った状態にかなり高い確率でなれているのではないだろうか。羽生くんはどんなモードであろうと、いちいち完成度が半端なく高い。おそるべき自己演出力。
 多分それは、フィギュアスケートというスポーツをやっていて、その中でセルフコントロールが必要な局面というのは多々あって、その都度その都度自分の性質や自分をどうやったらうまくコントロールできるかなどについてしっかりと考えてきたからなんだろう。また、フィギュアスケートという「見られてなんぼ」の競技をやっていて、なおかつ本人も「注目されることが好き」だから「自分が人からどう映るか」ということに対しても人一倍敏感に神経が働いているというのもあるだろう。あとは「人としてきちんとしているべき」というようなご家庭の教育もあったのではないかと思う。さらに、それなりの有名人になってからは、それ以前よりさらに、他者からどう評価されているか、自分はどういう自分として打ち出してゆきたいのか、を濃密に意識するようにもなっただろう。もともと自意識は強いタイプだったとは思われるが、さまざまな経験がさらに自意識のネットワークの豊かさと自己演出のコントロール力に磨きをかけたのだろう。
 多分そのコントロールは人前に出ると同時にほぼ自動的に働き始めるのだろうと思う(だからおそらく、羽生くんの本当の「素」は一人の時、もしくは非常に親しい人といるときでカメラなどが介在しない時しか出ないと思う。それ以外でも「素」っぽいモードでいることならあるかもしれないが)。そしてそのコントロールは、ある程度のことまでは無意識でできるようになっているだろう。そして最後に必要であれば意識で調整するという感じか。そういうふうに自己演出のコントロールがあまりにも巧みにできてしまうあたりが、時に羽生くんに対する評価として聞かれる「あざとい」に反映されているのだと思う。また「ナルシシスト」という評価も「自己演出うますぎ、演出した自分に入り込むのうますぎ」なところを反映しているのだろう。

 自我が強いとか自意識過剰とかという言葉は通常あまりいい意味では使われない。だいたい何にでもいちいち自分のことを持ち出す迷惑なヤツ、という印象が強いのではないだろうか。他者への配慮がなく自意識だけを振り回されるのは確かにとても困ったことである。
 ただ、羽生くんの自我の強さについて考えていると「他者への配慮」という視点をきちんと持てているのであれば、自意識が強いこと自体はあながち悪いことではない、と思えてきた。
 というのは、人はどうしたって、他者のことを判断したり評価したりする際に「自分をものさしにする」ことから逃れがたいからである。とすると、自分に対してしっかり意識をはりめぐらしていて、その自己概念が豊かで緻密であるほど、他者を見る目もよりきめ細かく正確になりやすい、と考えられるからである。
 羽生くんは他者(人だけではなくたとえばリンクの建物や氷などに対しても)に対する配慮ができる人である。それは「他者に配慮できる自分を演出しよう」というような意図や「他者に配慮しなさい」という家でのしつけなどだけではできるものではないだろうという気がする。多分羽生くんは自分のことを長所も欠点もかなり深く考え尽くしていて、その考える力を他者に対しても自然と応用できるのではないだろうかという気がする。他者というのは当然多種多様だから、羽生くんの自己演出コントロールコンピュータがどれだけうまく最適解を出そうと、他者からの評価は決して100%にはならないということも含めて、羽生くんの他者理解は年齢の割にはすごいレベルまで行っているのではないだろうか。

 自己理解力、他者理解力、それらを踏まえた上での自己演出力、そういった全てを含めた羽生くんの「自分力」は本当に凄いことになっていると思う。それだけのものを培ってしまった経験というのは(震災も含めて)やはりたいへんなものだったと思う。

 というふうに私は感じてしまうので、羽生くんが本当の「素」になってほっとできる時間が大切に守られるといいな、とあらためて思うのだった。

 と同時にその「自分力」のとてつもない、また多彩なエネルギーが、羽生結弦という人の魅力だとも思うのだ。

 高須さんの話の中で、やはり自分に入り込む力が強い人としてイチローさんがでてくるのがなんだか嬉しい。違った視点だけれど前にイチローさんと羽生くんの共通点について触れた記事を書いたことがあるので。

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 高須さんの語る羽生くん像も魅力的だし、日本スポーツプレス協会の「スポーツの鼓動vol.00」(PDFファイル)でカメラマンさんたちが羽生くんについて語っているのも興味深かった。以前「カメラマンさんもいいなあ」という記事を書いたことがあるけれど、カメラマンさんから見た羽生くん像というのを読むとますます「いいなあ」と思う。羽生くんを撮るカメラマンさんたちをたくさん集めて、被写体羽生結弦の魅力についてもっとがっつりたくさん語ってもらうような企画があるといいのに。


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07.09
Sun
 以前「感情移入型と抽象型」「抽象型はつらいよ、されど」という記事を書いて、表現のあり方としての「感情移入」と「抽象」を扱った。その後『抽象と感情移入』(ヴォリンゲル著 岩波文庫)を古本で手に入れて読んでみた。抽象と感情移入のそれぞれがどんな心理的歴史的文化的要因で生まれてきたと考えられるかなどが書いてあって面白かった。著者のヴォリンゲル氏も、執筆当時(20世紀初頭)の西洋では感情移入表現が優位だけれど抽象にはちゃんと抽象の価値があるんだ、ということを云いたかったようである。で、この本の中にちらっとゴシックについての話が出てきて、その記述が興味深かったので、同じ著者の『ゴシック美術形式論』(文春学藝ライブラリー)も読んでしまった。別に西洋美術だの建築だのが特に好きだったり詳しかったりするわけではないので「?」なところも多々ありつつも、面白く読めた。
 なぜ私が「ゴシック」の記述に興味を持ったか。ヴォリンゲル氏の説明するゴシックの特徴をものすごく乱暴にまとめると「構成する線は抽象のものなのに、そこには感情を移入させるものがある。ただしそれは感情移入型の芸術がもたらす感情、たとえばギリシャ芸術のように調和的、融和的な感情ではなく、超越的、陶酔的な激情といったものである」といった感じである(なぜゴシックがそういう性質を帯びるようになったかという点の考察も興味深いのだがそこまで入っていくときりがないしまとめきれる自信もないので省く)。
 それ羽生くんの演技じゃん、と私は思ったのだった。
 上記二つの記事に述べたように、私は羽生くんの表現は抽象型だと思っている。でもまぎれもなくある種の感情をもたらす要素というのはあって、その感情はもちろん曲調次第で異なるけれど、基本線としては超越的、陶酔的な激情といっても差し支えないと思う。少なくとも私はそう感じる。
 ゴシックの教会建築などを構成する線は、垂直方向、すなわち高みをひたすらに目指すそうである。その線の運動が超越的な思いを誘う。羽生くんも、その精神において「フィギュアスケートの高みを目指す」という垂直方向への運動が並み外れて強い人である。そういう人が演じるから演技にゴシック性が感じられるのかもしれない。というか私が羽生くんをそういう人だと思っているからそう見えるだけかもしれないが。このあたりは以前の記事「羽生結弦くんの超越性」「羽生結弦選手に勝手に「至高性」を見てしまう」に書いたこととも若干関係してくるかと思う。とにかく羽生くんというのは「超えてゆく」という意志がとても強い人なのは間違いないと思うし、加えて存在感そのものが此の世離れしているようなところもあって、そのあたりゴシックの高さを目指す線、それによって引き起こされる超越的、陶酔的な感情、とどうしてもイメージが重なってしまうのであった。
 あと「線」というのも重要な要素だな、と思っている。それこそものすごく抽象化して云うと、私は羽生くんの演技は「線」の演技だと感じている。羽生くんの身体や動きの描き出す線が印象を呼び起こしてゆく演技。それに対して感情移入型、たとえばフェルナンデスくんの演技などは「質感」の演技だと思うのだ。ギリシャ美術などの感情移入型表現がいろいろなものを写実的に描いて、調和的、融和的な感情を引き起こすように。もちろん羽生くんの演技も抽象100%ではないから羽生くんの演技にも「質感」の要素があるし、同じようにフェルナンデスくんの演技にも「線」の要素はあるのだけれど(今ふっと思ったけれど、ブラウンくんの演技は「線」と「質感」の融合のしかたがみごとなんじゃないだろうか)。
 ただ、羽生くんの演技をどんどんその本質に還元してゆくと「線」と「それによって引き起こされる超越的、陶酔的な激情」というところに収斂してゆくといってもあながち間違ってないんじゃないかなあ、と勝手に思っている次第。
 もしそれが当たっているとすれば、バラード第一番は、羽生くんの本質を一番反映できる可能性があるプログラムと云えるかもしれない。だからこそ羽生くんとしてもより極めたいと思って三季目、なのかもしれない。
 そういえばLet’s go crazyは「コネクト」の意識が強くて、ある意味垂直より水平方向を意識した演技だったかもしれないが、歌詞に「引き下ろそうとするものに抗ってエレベーターの上の階のボタンを叩け」というような意味のフレーズがあるのはなんだか羽生くんの精神にある「高みへの運動」に呼応している気がする。
 Hope & Legacy(特に世界選手権時の)やNotte Stellataは、芯にゴシック芸術的な高みを目指す心、陶酔的な憧れを抱きつつ、そのまわりにある意味ギリシャ芸術的な調和的、融和的なやわらかさをも同時に漂わすことに成功したプログラムと見ることができるかもしれない。
 羽生くんの「線」と「激情」が荒削りではありつつも一番純粋無垢な形でほとばしったのが旧ロミジュリ、特に多くのファンを墜としたニースの旧ロミジュリであったと考えることもできるかもしれない。

 いずれにせよ、私はだいぶ前から羽生くんは基本的には「激情の人」だと思っている。さて、今季のフリープログラムの方ではそれがどんな形であらわされることになるのか。いろいろな選手のプログラムがつぎつぎ発表になっているが、羽生くんのフリー発表はいつだろうか。どきどきしながら待っている。


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